北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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屋取)にあった。無人駅ではなく、駅長がし、た。クェーエキの周辺は屈が多く、にぎやかだった。→桑江ヌ前屋取のクェーエキを見よ。1鉄橋間|テッキョー|ウードゥグヮーヌメーヌ力一ラダヮーとケンドーが交差するところに架かっていた鉄橋。ちゅうざいしょクェーンマイーの一番北端にあった駐在所。チユーザイショと言うこともある。首里から来た城間巡査と、その家族が住んでいかでなくわえた。「嘉手納警察署桑江駐在所」と書かれた看板があった。家はカーラヤーで、広さは3間X3間ぐらいだった。床は板葺きで縁側もあった。クェーンマイーに面したところはガラス戸で、玄関もガラスの引き戸だった。屋敷の周囲は6尺ぐらいの板塀で因われてぼうふざいぬいた。塀には防腐剤が塗られ、黒かった。電話もあった。このジュンサヌヤーは昭和12 ~ 1 3 (1937 ~ 38)年頃作られた。それ以前は、屋号ホーイ:16や屋号イリー(伊礼): 36のアサギを借りていた。1工場価1デンプンコージョー|クヱーヌクシヤードゥイ(桑在ヌ後屋取)にあった工場。昭和1 5 ~ 1 6 (1940 ~ 41)年頃に作られた。話者によると、日本本やと土の人が経営し、従業員は近辺の女性たちを雇っていたようだと言イモでんぷんちゃたんそんう。芋から澱粉を作っていた。北谷村内だけではなく、村外からも馬車で持ってきていた。建物はコンクリートではなく、石の板のようなものでできていた。クェーエキの荷物置き場と同じような材質だった。話者によると、工場はカヨーダヌクシヌクムイの水を利用していたようだと言う。いしぶたいc.(しゃ昭和18 (1943)年頃には、日本軍の石部隊の宿舎となっていた。こわ戦後はすぐに壊されて、米軍のテントが建てられていた。→桑江ヌ後屋取のデンプンコージョーを見よ。1製糖小屋⑫ サーターヤー|共同製糖小屋。屋号チカジヤングヮー(津嘉山小): 5の南側にあったサーターヤー。メンダカリの人たちで共同利用していた。178 -カーラヤー:瓦ぶきの家。-ァサギ・農村などで、母屋の前にある離れ。メーヌヤーとも言つ。-石部隊:第62師団独立歩兵第1 2大隊の通称。

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