北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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《現地調査風景》-勲蛍温「eza・鞠盟国F‘“目その他コI力ン|護岸。シルヒージャーのあたりから、北へ向けて、ずっとゴガンが続いていた。ゴガンの切れ目から舟を出していた。馬車も通れるようになっていた。ゴガンは昭和11 "-' 1 3 (1936"-' 38)年頃に作られた。基礎工事マツそこに直径15 c mぐらいの松を橋のよっその上に石を積んでいた。アダンが生えていた。たでい浜て白りめは掘と留前いでるらトれぐルらmボ作1i、AMをみン砂組ガにゴはう-工夫:鉄道・道路などの土木作業の作業員。-パーキグワー:ざる・かごなど。11道|ケンドー|県道。県から工夫が2"-'3名来て補修工事を行なっていた。ラックで運んできた石を道のあちらこちらに置いて、それを工夫がパーキグヮーに入れて運び、窪んだところを埋めていた。話者によると、人手が足りない場合には、区長に頼んで、集落の人たちが出ることもあったかもしれないと言う。戦争前には大きな工事はなかったが、戦争が激しくなる頃には日本軍が道幅を拡張していた。そのため、ケンド一沿いの屋敷の石垣くずばっさいが崩されたり、フクギなどの植木が伐採された。このような工事はよ〈ばぐみうお国場組が請け負っていた。卜-キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。米海軍病院がある。1郡道|ゴンゴ口ーミチlジャーガルミチの一部を言う。石がたくさんあって、あまりいい道ではなかった。坂道で、でこぼこも多かった。道|隔は馬車のすれちがけわυぐ違いができるぐらいだった。道が険しいので、雨の日や日暮れなどには通行を避けていた。じゃーカ.る現在の県道24号線の一部。戦前の道は、現在の謝苅入口よりも〈わえ北側で、キャンプ桑江第1ゲート(軍病院入口)あたりであった。ちやたんわんきょ〈こから、北谷郵便局の湾曲したあたりまでをゴンゴ口一ミチと言った。500mぐらいの範囲である。クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)そコの聞取り情報では、ンゴローミチと言う。→桑江ヌ前屋取のジャーガルミチを見よ。アンブスーヤマグヮーへ向かう道。172 1生活道|キジャマミチ|キジャマを通って

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