北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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(桑江)ェクi村渠|メンダカリl綱引きのときの組分けの1つ。集落の中央を東西に走る屋号ホーイ:16からクェーンマイーにつながる道を境にして分けていた。《間取り調査風景》道から南側がメンダカリである。|クシンダカリ|綱引きのときの組分けの1つ。集落の中央を東西に走る屋号ホーイ:16からクェーンマイーにつながる道を境にして分けていた。道から北側がクシンダカリである。クェーメー(桑江前)、とも言う。i集落クェーヌメ一ヤードゥイ|桑江ヌ前屋取。クェーヌメー(桑江ヌ前)、(桑前)、メ一ヤードゥイ(前屋取)クワマエ|クェーヌナ力ヤードゥイ|桑江ヌ中屋取。クェーヌナカ(桑江ヌ中)、クェーナカ(桑江中)、クワナカ(桑中)、ナカヤードゥイ(中屋取)とも言う。《間取り調査風景》lクェーヌクシヤードゥイ|桑江ヌ後屋取。クェーヌクシ(桑江ヌ後)、クェークシ(桑江後)、(桑後)、クシヤードゥイ(後屋取)とも言う。クワクシ|ジャーガルヤードゥイ|あざ謝苅屋取。大正時代まで字桑江に属し、青年団もクェー(桑江)と一緒だったので、クェ一(桑江)のエイサーはジャーガルヤードゥのぼこんいんイ(謝苅屋取)の方まで上って行った。しかし、婚姻などのつきあこんぷいはあまりなかった。昆布、そうめん、酒などを売る小さな商屈があった。11河)11|ナル力一|《現地調査風景》との(伊礼)とイリー(桑江ヌ後屋取)イ内JHトa。ヤたシいクてヌれ一流エをク朴界制境の屋号ウフハージョー169 (桑江ヌ後屋取)ィウぃ卜||一了ン一ヤ一ク一シ一一一ク一いLヌ一ヨ一一AV.-一一、〉一エ一一一ク一、、一一,J一

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