北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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よみたんそんなかぐすくそん読谷村、中城村などからも来ていた。クェー(桑江)の人たちも参加していた。また、クェーンマイーには昭和15 ~ 1 6 (1940 ~ てつぼうすんかく41)年頃に作られた鉄棒があった。五寸角ぐらいの杉材やパイプなどで作られたもので、高いものが1つ、中ぐらいのものが1つ、低いものが3つの計5つぐらいあった。クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の屋号ナカチグヮー(仲地小)の家の前、西側にあっすなばた。砂場もあった。他にもクェーンマイー内には、マーイサーもだえんけいあった。話者は楕円形とやや丸形の2つは覚えていると言う。別の集落の人がマーイサーを自分の集落へ持って行き、持ち帰れるなら持っていってみろという風に勝負することもあったようだ。浜や、チャタントンネルの下の拝所のところでモーアシビをしていた。昭和5(1930)年生の話者が小学校5~6年生の頃まで行なわれていたのを覚えていると言う。戦争のため、取締りが入るようになってからは、やらなくなった。話者によると、クェー(桑江)とチャタン(北谷)はチャタントンネルを隔てただけだが言葉が違うと言う。[集落で行なわれる主な年中行事].旧暦2月1~ 3日<ニングヮチャー>男性のみの参加で、3日間行なわれた。メン夕、力リとクシンダカリに分かれ、さらに13~2 5歳ぐらいまではワカカ夕、30代はナカカ夕、50代以上はトゥスイカタの3組に分かれて行なっていた。トゥスイカタのとあいさつころにワカカタとナカカタは挨拶に行っていた。13歳以上の人かかいひちょうLゅっとうふかまらは10銭ぐらい会費として徴収された。2日目は、皿に豆腐や蒲鉾を盛り、真ん中に芭蕉を立てたシンムイを持って、ビジュルや卜ウおがンを拝みに行った。シンムイを持つのはワカカタであった。3日目ひょうは役員がかかった費用のサンミンをした。.旧暦6月<綱引き>:メンダカリとクシンダカリに分かれて行なう。屋号ナカミチジャチングヮー(中道座喜昧小): 34のアジマーで綱を号|く。.旧暦7月15 ~ 1 7日<エイサ一>:大太鼓としめ太鼓を用いてエイサーを行なった。3日目には、屋号ユナグスク(与那城): 21に行き、神さまに無事終了したという報告を行なった。そこで慰労会のようなこともしていた。せっしゅうくわえ集落域は米軍に接収され、キャンプ桑江内となっている。現在の軍病院あたり一帯である。そのため、人々は他集落に分散して暮らしんぼくしているが、郷友会を中心にさまざまな行事を行ない、親睦を深めている。167 《間取り調査風景》-マーイサー・集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶことロ三味線・歌-踊りなどをして楽しむ。.ニングヮチャー:旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・ワカカタ:若者の組。・ナカカタ:壮年の組。・トゥスイカタ:年寄りの組。-シンムイ・ごちそうの盛りつけ。-サンミン・計算。勘定。-アジマー・交差点。-エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。米海軍病院がある。

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