北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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クェ一(桑江)北谷町域西側に位置する集落。その周りには3つの屋取集落があった。北側はクェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)、西側はクェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、南側はクェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)に隣接していた。戸数は47軒で、そのうちカーラヤーは9軒あった。ほとんどの家が100坪ぐらいの広さがあり、母屋、アサギグヮー(メーヌプタヤーグヮー)、勝小屋、炊事小屋なども別々に作ってあった。土質けいびんはほとんど砂地だった。話者によると、軽便鉄道の線路を作るときに、各家の敷地内から砂を掘って、売っていたという話を聞いたことがあると言う。そのため、どの家にも砂を掘った後の丸い穴があり、そこに池を作り、アヒルを飼っていた。かでクェーンマイーの一番北端には、ジュンサヌヤーがあり、「嘉手くわえ納警察署桑江駐在所」の看板がかかっていた。首里から来た巡査と、その家族が住んでいた。ムラヤーはなかったが、屋号ユナグスク(与那城):21に集まったりしていた。エイサーの最終日には、そこに報告に行き、慰労会のようなこともしていた。集落内は2mぐらい掘れば水が出るので、ほとんどの屋敷に井戸があった。2m50cmぐらい掘れば、そのうち1mは水が溜まっていた。大雨の場合はさらに水位が上がって、ニーフοで水を汲むことができた。組分けは集落の中央の道を境にして、北側はクシンダカリ、南側はメンダ力リの2つに分けられた。サーターヤーは2か所あり、屋号チカジヤングワー(津嘉山小): 5 の南隣がメンダカリ、屋号ホーイ:16の東隣がクシンダカリのサーターヤーだった。以前は、屋号イリー(伊礼): 36近くにもあったようだ。また、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の話者によると、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の屋号ナンヨーチニングワー(南洋知念小)の南隣にあったサーターヤーは、ムラヌサーターヤーと呼ばれており、クェー(桑江)のものだったと言う。ゴガンの切れ目のところから浜に下りたところでフナウクイをしていた。アダンや浜に打ち寄せられたものを燃やして煙を出し、アンマーやオパーたちが、テークグヮーを叩き、ダンジュカーリーをして踊り、旅に出る人を見送っていた。以前は、サーターヤーモーそばの側にあるちょっとした広場でも行なわれていたと言う。クェーンマイーがあり、昭和17 (1942)年頃まで、馬勝負をしていた。朝10時頃から、昼をはさみ、夕方頃までやっていた。ひしんぱんちゃたんそんげを生やし、クンジーを着た年寄りが審判をしていた。北谷村外の166 《間取り調査風景》-カーラヤー:瓦ぶきの家。・アサギグヮー:農村などで母屋の前にある離れ。メーヌヤー(前の屋)とも言う。《間取り調査風景》-ムラヤー・集落の集会所。・エイサー・旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-ニープ・ひしゃく。-サーターヤー:製糖小屋。-フナウクイ見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。・アンセー:お母さん0・オパー:おばあさん。・テークグワー:太鼓。・ダンジユカリユシ:船出の祝い歌。身内のものが旅をするとき、一族が集落の広場あるいは高台に集まって航海の無事を祈願し、これを奇士った。・馬勝負:馬の飾りや歩き方の美しさを競う0・クンジー:藍染の着物。

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