北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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がわはまがわリーフ側一帯である。現在の浜川|漁港の第1ポールを境にして、一シハラガーとフェーハラガーに分かれる。しお漁師は、潮の流れによって、ハンジャンイノーとニシハラガーをはっきり区別していたが、一般の人は二シハラガー付近も含めて、全体をハンジヤンイノーと言っていた。|フェーハラガ-1はまがわ現在のサンセットビーチの下あたり。現在の浜川漁港の第1ポールを境にして、ニシハラガーとフ工一ハラガーに分かれる。|力チャーラ|[※編注:記載した地図の範囲外にあるため、地図上には記載していない]いしづフェーハラガーの南側にあった。カチがあったところで、石積みが残っていた。。たつ11ぁ: 一ヒ一に三ノ一下三の一一一ヲ二'一方一ノ一・一Arl--一,,,,一tgJ-ナ一イムμ一i津口クェーグチ|サンゴ礁の切れ目から船が出入りできる場所であった。クチを含Lおめでクェーンナトゥと言うこともある。潮が号|し、たときに、ある程度の水深があった。話者によると、入り江の下は10mぐらいの深さがあり、一番深いところでは17~18mぐらいあったのではなかんちょういかと言う。そこで旧暦5月4日の干潮時にはハーリーが行なわれていた。ハーリーを行なうのは、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌけんぷつ中屋取)の人たちが中心で、周囲の集落の人たちは見物に来ていた。たきぎつヤンパルセンせんいんく薪などを積んだ山原船も来ていた。その船員が水汲みに来たり、せんどうこんぶZ船頭が酒やタバコ買いに来たりしていた。そうめん・昆布などを那覇から積んで来て、山原に帰るときに寄ったりするようだった。昔は砂糖も積んで行った。6~7月頃には、クェーグチにガチユン(アジ)が入ってきていた。現在のサンセットビーチのあたりである。→桑江ヌ後屋取のクェーンナトゥを見よo!こシヌトーンダヮー|{※編注:記載した地図の範囲外にあるため、地図上には記載していない]クェ一(桑江)の間取り情報によると、沖に向かつて、クェーグ156 《聞取り調査風景》-ヵチ:魚垣。魚、を捕るために浅i瀬に積んだ石垣。-ハーリー.旧暦5月4日に行なわれる船の競争行事。-山原船:沖縄本島北部、俗称ヤンバルと中南部を往来していた交易船。

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