北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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の人たちが見物に来た。ハーリーに使う船は、10日ぐらい前からりくあはた陸揚げして手入れをしたり、旗を立てたりして準備していた。ウガせきンパーリーは2隻で、アガリバーリー(スープパーリー)は3隻で行なわれた。1隻に12人乗っていたが、実際に漕ぐのは10人かねかじだった。残りの1人は鉦をうつ人で、もう1人は舵取りであった。クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の人を中心にして、クェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クヱーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の人たちも漕ぎ手として出ていた。力量が偏らないように、漁労長が乗る人を調整し、決定していた。ハーリーは昭和16 (1941)年頃まで行なわれていた。ハーリーを終えた後は、アンプシモーで沖縄相撲やムラ芝居が行なわれた。相かでな撲は他集落からも参加者が集まった。嘉手納農林学校の生徒が多く出場していた。芝居は、クェーヌナ力ヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)きたたまじんじようの人が演じるムラ芝居であった。北玉尋常高等小学校から教壇を借りてきて、10畳ぐらいの広さで、高さ60"'70cmの舞台を作っていた。.旧暦7月13"'15日<盆>:先祖への供物をガチに横取りされないために、ミンヌク、ガンシナ、カーサグワーに包んだ食べ物などを用意した。エイサーはクェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)のみで行ない、集落内の家を1軒ずつ回る。エイサーシンカの30"'40名が入れる家は屋敷内で行ない、入れない場合は家の前の道で行なう。男性のみの参加で、空手の型のエイサーである。せっしゅう集落域は、現在の58号線沿いとなる。東側は米軍に接収され、くわえキャンプ桑江内となっている。西側は屈が立ち並ぶ地域で、戦前の地形は変化してしまったものの、昔と同じく、にぎやかさをみせている。84治合二ふ胡国ιー~戸柑----"品詑与ー《画・比嘉昌信氏》153 -ハーリー:旧暦5月4日に行なわれる船の競争行事。・ゥガンバーリー:神仏への祈願として最初に行なわれるハーリー・アガリバーリー(スープパーリー):勝敗をかけて競いあうハーリー。-ムラ芝居:集落の人たちが演じる芝居。・嘉手納農林学校:沖縄県立農林学校。国頭農学校がその前身。大正5(1916)年に嘉手納に移設された。・北玉尋常高等小学校:北谷尋常高等小学校の分教場であった。大正3(1914)年に北玉尋常小学校として開校し、大正6(1917)年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校となった。・ガチ:餓鬼。食をむさぼる霊。・ξンヌク:餓鬼に供えるもの。・ガンシナ:荷物を頭に乗せて運ぶ時に敷く、藁で編んだ丸い輪。・カーサグワー:食べ物を盛ったり、包んだりする大きな葉のこと。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・エイサーシンカ:エイサー仲間。・キャンプ桑江(キャンプ・レスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。米海軍病院がある。

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