北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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て、神様が杷られていた。三方を石で囲み、屋根も石造りの桐があった。1m四方ぐらいだった。背後には松の木が生えていた。昭和12~13(1937~38)年頃に、石造りからコンクリート造りかいちくうで瓦屋根の洞に改築した。ビジュルは埋まっており、地上に40~5 0 c mほどしか出ていなかったが、改築するときに掘り起こしてみると、1m20~30cmぐらいの高さがあった。他にもビジュルが出てきて、計3個になったので、3個並べて、洞の中に入れた。そのときに石段もコンクリート造りにした。話者によると、改築のちゃたんそん費用はクェ一(桑江)だけではなく、北谷村からも出たらしいと言う。クェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の4集落の人たちが拝んでいた。旧暦2月2日のニンLゆっせいおがグヮチャーや、兵士が出征するときにも拝んでいた。ビジュルの前は広場になっており、そこでラジオ体操やエイサーの練習をしていた。現在、ビジュルは町立第四保育所入口あたりに移されて、組られている。桑江馬場。クェ一(桑江)とクヱーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の間にあった。年に一度、ンマスープが行なわれた場所である。マーイサーも置いてあり、担いで遊んでいた。→桑江のクェーンマイーを見よ。11寵屋' |ガンヤー|クェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の4集落でガンとガンヤーを共同使用していた。いしづガンヤーは崖のへこみに小屋を建て、その前に石積みをしてあるこわという簡単な造りだった。話者によると、ガンヤーのところは怖いのであまり行かなかったと言う。ガンは喪家で組み立て、墓まで4名で担いで行った。ガンは前に2人、後ろに2人の合計4人で担いでいた。一度担いだら人を交代することができず、肩を変えることもできなかった。人の家の前で休んではいけなかった。ニンブチヤーを先頭にして、ガンを担いだぱLょっふそう4人と、芭蕉布をかぶった5~6人の泣き女がその後に続いた。喪かれい家以外は、屋敷の門のところに霊が入ってこないようにという意味146 《ビジュル》-ニングヮチャー:IB暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を聞き、余興をして楽しむ。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-ンマスープ:馬の飾りや歩き方の美しさを競う。・マーイサー・集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-ガンヤー:寵を納めておく小屋。-ガン:禽。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-ニンブチヤー・葬式のときに鉦をたたき、念仏歌を歌う人。ときには経文を読み、僧の代わりをつとめた。

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