北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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そそばほかんそうこら那覇へと運ばれた。駅の側には砂糖樽を保管する倉庫があり、の管理は、屋号ヤラグヮー(屋良小): 76がしていた。そばたす駅の側に、j留め池みたいなものがあり、そこから汽車の水を吸いじようききかんしゃ上げ給水していた。蒸気機関車だった。くわえ現在の町立桑江中学校のあたりである。1鉄橋冒lテッキョー|クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)とクェーヌナカヤードゥの境界を流れていた力一ラグヮーに架かってい(桑江ヌ中屋取)た鉄橋。イちゃたんそん(屋良小): 76の南側にあった。北谷村内農業組合が管理していた。一たワいグてラしヤ米「ヨ一号精,.一ジ一屋を設一行一h米描一マ一細川北ア一三精取公一セ一;で《間取り調査風景》建物キジョー|劇場。屋号イチパルグヮー(池原小):79の西側にあった。掘っ建ろてんて小屋で、客席は露天だった。話者によると、ゲキジョーを建てた人ははっきりわからないが、劇団が建てたのではないかと言う。地方回りの劇団がやってきて、一定期間滞在しては入れ替わるというかたちで、毎日芝居をしていた。くじ引や福引などもあり、米一俵などが当たった。昭和12 ~ 1 3 (1937 ~ 38)年にできて、昭和1 8 (1943)年頃まであった。-サーターグミ:製精の作業をする組。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。1製糖小屋⑫ 1サーターヤー|共同製糖小屋。1か所だけだった。屋号サーターヤーチズカグワー(サーターヤー喜如嘉小):38の南側にあった。サーターグミかでなさかはなかった。嘉手納製糖工場が盛んになってからは、サーターヤーはあまり利用されなくなっていた。話者によると、戦争で働き手が少なくなったせいもあると言う。-ビジュル:霊石として租られる石。チャタントンネルとマヤーガマの間にあった拝所。7~8段ぐらいしづあこうろいの簡単な石積みの階段があり、そこを上がると香炉が置いてあっ145 11拝所禽

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