北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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た。匡亙亙屋号ウフハマジヨー(大浜門): 39のところにあったクムイ。1十字路|クェーヌメーカジマヤー|集落内で一番大きなカジマヤー。屋号クワーシヤーヤマグスク(菓子屋山城): 65のところだったので、クヮーシヤーカジマヤーとも言う。クヱー工キへ行く道とケンドーが交差するところだった。屈が立ち並びゃ、人や荷馬車などが行き交う、交通の要所としてにぎやかな場所だった。他集落の人たちも知っているぐらいに有名なカジマヤーだった。→クェ一(桑江)のクヮーシヤーカジマヤーを見よ。1トンネル働lチャタントンネル|クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)とチャタン(北谷)のとお間にあったトンネル。荷馬車が2台通れるぐらいの幅があった。高さは5mぐらいだった。ちょうじよヲとおトンネルの頂上から、船が沖を通っていくのが見えたので、そこでフナウクイをしていた。とおてんじよう幅や高さがなく、大きな車は通れなかった。トンネル内の天井にあとやらはこすった跡がついていた。屋良飛行場の整備のためのトラックとおが通れなかったために、昭和19 (1944)年の十・十空襲以後、日がれき本軍によってダイナマイトで爆破された。爆破で出た瓦礁はもっこやスコップなどで人力で片づけていた。でなくわえ県営鉄道嘉手納線の桑江駅。クェーヌメーエキ、クェーヌエキとも言う。かでななは無人駅ではなく、駅長がいた。嘉手納から那覇まで15駅あり、あさとおおやまかクェーエキは大きな駅の1つだった。他には、安里駅・大山駅・嘉でな手納駅が大きかった。クェーエキの周辺は屈が多く、にぎやかだった。那覇以外で、マチヤや写真屋まであるのは、クェーエキと嘉手納駅ぐらいだった。グヤカジマヤー(現在のゴヤ十字路)のヤマシタという庄から、クェーエキまでの連絡馬車もあった。くしかわごえく具志川や越来などからも砂糖樽を運んできていた。クェーエキか144 -クムイ:池。沼。-カジマヤー:十字路。道が交差するところ。《間取り調査風景》-フナウクイ:見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。・屋良飛行場:昭和19 (1944) 年に日本陸軍が建設した飛行場。中飛行場。米軍に接収され、現在の嘉手納基地となった。・十・十空襲:昭和19 (1944) 年10月10目、南西諸島に対して行なわれた米軍最初の大空襲のこと。-沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野国・平安山・桑江・北谷・大山・真志喜・大謝名・牧港・城間・内問・安里・与儀-古波蔵・那覇の15駅があった。-マチヤ:底。

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