北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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本軍に伐採された。かいつうチャタントンネル開通前は、ビジュルとマヤーガマの聞から、4尺(1.2 m)幅ぐらいの道があった。トンネルヤマを越えて、南側にあった屋号トンネルヤーはの前に出る道で、その近くに幅70 c m、ひぷん高さ1m50cmぐらいの碑文があった。話者によると、全部漢字で書かれており、縦書きだったと言う。目地域・その他コガ判シラヒージャーのあたりから、北へ向けて、海岸沿いにずっとゴガンが続いていた。ゴガンの切れ目から舟を出していた。馬車もとお通れるようになっていた。ゴガンは昭和11 ----1 3 (1936 ----38)年の頃に作られた。基礎工事は、砂を1mぐらい掘り、そこに直径15 c mぐらいの松を橋のように組み、ボルトで留めていた。その上に石を積んでいた。ぼうふうりんゴガンが作られる前は、白浜でアダンが生えており、防風林となっていた。11県道|ケンドー|県道。集落の中を南北に走っていた。クェーエキへ行く道と交差するところはクェーヌメーカジマヤーと言い、屈が立ち並び、人や荷馬車などが行き交う、交通の要所としてにぎやかな場所だった。県道なので、県から工夫が2----3名来て、補修工事を行なっていた。トラックで運んできた石を、道のあちらこちらに置いて、それを工夫がパーキグワーに入れて運び、窪んだところを埋めていた。話者によると、人子が足りない場合には区長に頼んで、集落の人たちが出る場合もあったかもしれないと言う。戦争前には大きな工事はなかったが、戦争が激しくなる頃には日かくちょう本軍が道幅を拡張していた。そのため、ケンド一沿いの屋敷の石垣〈ずばっさいが崩されたり、フクギなどの植木が伐採された。このような工事はこ〈ばぐみうお国場組が請け負っていた。現在の国道58号線である。一チ一一と三「レ一一.,J一: トガ一堕↑一司才司4-AV''-IEta-、、,一のぼジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)へと上る道。クェーヌメーカとおジマヤーを通り、クェーエキへ行く道とつながっていた。じゃーがる現在の県道24号線を言う。戦前の謝苅入口よりも北側で、キャ142 《間取り調査風景》-工夫:道路・鉄道などの土木工事の作業員。-パーキグワー:ざる・かごなど。

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