北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)目河川|ルラヒージャー|クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)とチャタン(北谷)の聞を流れる川。昭和初期頃にはチャタンガーラと呼ばれるのが普通になっていた。か学校帰りには、シラヒージャーで泳いで遊んでいた。下流では家畜(馬・牛)に水浴びをさせていた。しらひぱし現在の白比橋の下あたりに飛び石があり、橋が架かる前は、そのわた飛び石を渡っていた。その中でも大きい石をナーカヌシーグヮーと言う。こうたいかんちょうし。つげき戦時中には川べりに特攻隊の基地があった。干潮時でも出撃でせきるようにするため、シラヒージャーを堰き止め、流水を調整できるように工事もされていた。海までレールが敷かれていた。しらひがわ現在の白比川のことである。→桑江のナーカヌシーグヮーを見よ。|力一ラグヮー|クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)とクェーヌナカヤードゥきょうカいイ(桑江ヌ中屋取)の境界を流れていた川。川の北側にはクヱーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)の屋号ウードゥグヮー(小渡小)があったので、ウードゥグヮーヌメーヌ力一ラグヮーと言うこともある。また、ウナガヌクシヌカ一、ハイスイロとも言う。川幅はそれほど大きくなかった。畑に降った雨水が海まで流れていた。ンナジ(ウナギ)やターイユ(フナ)などがいた。雨が降った後、ふつ水量が増えると、橋の下でも釣りをしていた。水量が少ないときにたは、上流の方に水がちょっと溜まるところがあったので、そこで釣りをしていた。→桑江のウードゥグヮーヌメーヌ力一ラグヮ一、エキヌメーヌ力一ラグヮ一、桑江ヌ中屋取の力一ラグヮーを見よ。1丘陵イチグスク|チャタントンネルが掘られた正陵。トンネル開通後はトンネルヤマと言っていた。松林があり、30"'40本ぐらいの松が生えていたが、昭和19 (1944)年に、特攻隊の船の枕木にするために日141 《間取り調査風景》-日本陸軍の海上特攻隊(海上挺身隊)の特攻艇・マルレの秘匿壕:昭和20 (1945)年3月29日深夜に、北谷村の基地から1 7隻が出撃したが、ほぼ全艇来帰還となった。《間取り調査風景》-日本陸軍の海上特攻隊(海上挺身隊):白比川沿いに特攻艇・マルレの秘匿壕があった。

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