北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)ヤードゥイ北谷町城西側、ケンド-沿いの屋取集落。北側はクェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)に隣接し、南側には沖縄で最初にできたと言われるチャタントンネルがあった。戸数82軒で、そのうち力一ラヤーが19軒あった。集落名はクェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)だが、略称としてクェーヌメー(桑江ヌ前)、クェーメ一(桑江前)、メ一ヤードゥイ(前屋取)、クワマエ(桑前)と言うこともある。クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)の人や近隣集落のあいだでは、メ一ヤードゥイと言うことが多かった。また、仲地姓が多いため、ナカチヤードゥイ(仲地屋取)とも言った。らつかせい主業は農業であった。砂地が多いので、落花生を作っていた。また、組合を作って、本格的にトマトの栽培・出荷をしていた。フィリピン、南洋移民が多く、働き盛りの青年は、ほとんど出稼ぎに行っていた。集落を南北にケンドーが走っており、その道沿いには飲食庖、マチヤ、写真館、理髪庖、旅館などが立ち並んでいた。屋号クワーシヤーヤマグスク(菓子屋山城): 65のところにあったクェーヌメーカジマヤーは他集落の人も知っているぐらいに有名だった。また、集落の西側にはクェーエキがあり、交通の要所となっていた。そのため、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)は、人や荷馬車が行き交うにぎやかな集落として有名であった。集落内は、深く掘らなくても水が出たので、井戸は各家にあった。つるべを1回で引き上げられるlm50cmぐらいの深さだった。しおから海に近い集落だが、水は塩辛くなく、水質が良かった。サーターヤーは共同のものが1か所、屋号サーターヤーチズカグヮー(サーターヤー喜如嘉小): 38の南側にあったが、委主治製糖工場ができてからは、あまり利用されなくなっていた。チャタントンネルとマヤーガマの中間ぐらいに拝所があった。嗣の中に3体のビジュルがあり、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)だけではなく、クェー(桑江)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の人たちも拝んでいた。ムラヤ←はなかったが、その代わりに、屋号カジマヤーターパグヮー(カジマヤー田場小): 35に集まったりしていた。ガンヤーは集落の南端にあった。ガンはクェー(桑江)、クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)、クェーヌナカヤードゥイ(桑江ヌ中屋取)、クェーヌクシヤードゥイ(桑江ヌ後屋取)の4集落合同で使用していた。138 -カーラヤー:瓦ぶきの家。《間取り調査風景》-マチヤ:J苫。《間取り調査風景》圃サーターヤー:製糖小屋。・嘉手納製橋工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。-ビジュル:霊石として紀られる石。-ムラヤー・集落の集会所。-ガンヤー:癒を納めておく小屋。・ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。

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