北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)ヤードヮイなかぐすくそん北谷町域東側、高台に位置した屋取集落。東側は中城村に隣接していた。戸数40軒であった。ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)と併称し、ヤジナケーマ(屋宜伸山)と言うこともある。集落は3つに組分けされていた。一番西側の13軒がメーヤジで、メ一ヤードゥイとも言った。次に、集落の真ん中に位置した1 2軒をナカヤジと言い、ナカヤードゥイとも言う。また、一番東側に位置した15軒がクシヤジで、クシヤードゥイとも言った。ほんあざ本字はタメーシ(玉代勢)であった。昭和14 (1939)年にはナぎよヲせいあざぷんりどくりつケーマヤードゥイ(仲山屋取)とともに行政字として分離独立し、「玉上(たまうえ)Jとなった。これはタメーシ(玉代勢)の上(高台)に位置しているという意昧でついた名前である。それが戦後には「玉上(たまがみ)Jと呼ばれるようになり、現在に至る。ヤジヤードゥイ(北谷・屋宜屋取)、ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)、ウアンダヤードゥイ(中城・大平屋取)、ヤジヤードゥイひらヤードヮイ(中城・屋宜屋取)の4集落は士族が拓いた屋取集落である。カーラヤー造り、(マチ)墓造りなどの大きな仕事は、この4集落共同で行なっていた。イモ主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。田んぼも少しあった。また、フィリピン・ペルー・ブラジル・アルゼンチンなどに出稼ぎに出る人も多かった。集落内には泉が少なかった。メーヤジには屋号マチークミシグワー(松米須小): 1の西側にメーヌカーがあったが、水量は少なひでかく、日照りにはj回れるため、ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)まで水汲みに行っていた。クシヤジのイジュングヮーとウフイジュンは日照りでも水が澗れることはなかった。特に屋号サーターヤーニーユヒングワ一(砂糖屋根鏡辺小): 30の西側にあったウフイジュあふンは、溢れた水が流れになるほどであった。集落の西側にはウフモーと言うフナウクイをする場所があった。ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)とナケーマヤードゥイ(仲山屋取)のずけらん人たちが利用していた。現在はキャンプ瑞慶覧内で、米軍の住宅地になっているものの、埋め土はなく、均されているだけなので、戦前のウフモーの感じがわかると言う。ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)は地形が悪く、フトゥキントーミチをはじめ、急、な坂道が多かった。道幅も1間半(2.7m)ぐらいしとおっかないような道で、馬車は通れず、馬の背に荷物を積んで運んでいた。ぜつべき集落の西側、ウフモーの下あたりには絶壁があった。戸を立てた124 《間取り調査風景》圃力一ラヤー:瓦ぶきの家。圃マチ墓:亀甲墓の一種。墓のてっぺんにつむじの形の文様がある大きい墓。-フナウクイ:見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。圃キャンプ瑞慶覧(キャンプ-フォスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。

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