北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|バーケーモー|まぎりきょうかいぶんすいれいちゃたん間切時代のジーワイの境界。山の分水嶺で分けられ、西側が北谷なかぐす〈間切で、東側が中城間切だった。|ウフチドーI[※編注:位置不明確のため、地図上には記載していない]へいたんヌーファパルの中にある平坦な場所を言う。|シチャヌトーI[※編注:位置不明確のため、地図上には記載していない]へいたんヌーファガーラ沿いの平坦な道。11村道|ウフミチ|とおガッコーミチとも言う。荷馬車が1台通れるぐらいの道幅だっちがたので、ところどころに馬車がすれ違いをするための場所を作ってあった。タメーシ(玉代勢)へつながる道である。えんじよ昭和9'"1 0 (1934'" 35)年頃に日本政府の援助によって造られた農道で、荷馬車を入れるための道だった。しかし、農道希同益だけでは足りず、ヤードゥイジンミを行ない、集落の人たちで夜間工びん事をすることになった。瓶などに石油を入れ、カコーに火をつけたものを道の周囲に置いて行なわれた。ヌチシンもした。エーキンチュからは、ジューシーメーおにぎりの差し入れなどもあった。道の工事後は、屋号ナーカヌアガリ(ナーカヌ東):25まで荷馬車が入れるようになった。それ以前は屋号ナーカグヮー(ナーカ小): 7あたりまでしか入れなかった。チ一一と三一一「卜一云〆一道元一hvバrp一当一フ一そぼウマニーミチとも言う。屋号ユシガー:3の側を通り、ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)へ行く道。ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)とヤジヤードゥイ(屋宜屋取)をつなぐ大きな道だったが、坂道で地形がとおの悪かった。馬車は通ることができず、馬の背中に荷物を載せて運んでいた。そのため、ウマニーミチとも言っていた。サトウキピや砂糖など2丁ずつ載せて運んでいた。i坂道'ヌーファビラ|タメーシ(玉代勢)へ行く道で、ヌーファバシを越えると坂になっていた。100mぐらい急な坂があり、その後、道がゆるやかに〈だなって下っていく。わりあい広く、2間(3.6m)ぐらいの道幅だ115 -間切:明治40(1907)年まで使用されていた沖縄独自の行政区画単位。現在の市町村とほぼ同じである。・ジーワイ:地割。耕地その他の割替制度。-ヤードゥイジンミ:集落の協議。・カコー:使い古したぼろきれ。・ヌチシン:募金。・エーキンチュ:金持ち。財産家。・ジューシーメー:炊き込みご飯。

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