北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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なっており、そこにマーイサーを置いてあった。重さが140斤(84kg)・120斤(72kg)・100斤(60kg)・70斤(42kg)・40斤(24kg)・30斤(18kg)などのものが、10個ぐらいあった。そのうちの2~3個は現存している。チャタンエキを利用していた。そこから那覇まで、汽車賃は32 銭だった。集落の真ん中を東西に走る道をウフミチと言った。荷馬車が1とお台通れるぐらいの道幅であった。道のところどころに、馬車がすれ違うための場所を作ってあった。以前、この道は、屋号ナーカグワー(ナーカ小): 7あたりまでしか、荷馬車が入ることができなかった。そのため、昭和9~ 1 0 (1934 ~ 35)年頃、日本政府のえんじょのうどうほじよきん援助を受けて造ることになった。しかし、農道補助金では足りず、ヤードゥイジンミを行ない、集落の人たちで夜間工事をすることにびんなった。瓶などに石油を入れ、カコーに火をつけて道の周囲に置いて行なわれた。ヌチシンもした。エーキンチュからは、ジューシーメーおにぎりの差し入れなどもあった。工事後は、屋号ナーカヌアガリ(ナーカヌ東): 25のところまで荷馬車が入れるようになった。タメーシ(玉代勢)へ行く道につながる。[集落で行なわれる主な年中行事].旧暦2月1~2日<クシユクワーシ一(クスックィー)>:ウィーグミとシチャグミに分かれて行なわれた。ヤードゥは毎年変わるが、カーラヤーや大きい家などがあてられていた。10銭ぐらいずつ徴収された。1日目は男性のみで行なわれ、2日目は男性がウケーメーを炊いて、女性にふるまった0・旧暦7月<盆>:屋号ヤマーアガリ(ヤマー東): 20の三叉路のところが広っぽになっており、そこでエイサーの練習していた。せっしゅうずりらん集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧となり、軍司令部や軍の住宅地などに使用されていた。現在は返還され、元の屋敷地一帯は住宅地となっている。111 -マーイサー集落の広場などに置いてある大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。《間取り調査風景》-ヤードウイジンミ:集落の協議。・カコー:使い古したぼろきれ。・ヌチシン:募金。・エーキンチュ:金持ち。財産家。・ジューシーメー:炊き込みご飯。圃クシユクヮーシー:農繁期のあとにする骨休みの行事。・ヤードゥ:一時的に集会所にあてられる家。・カーラヤー:瓦ぶきの家。・ゥケーメー:おかゆ。-エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。

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