北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)北谷町域東側の高台に位置する屋取集落。戸数33軒で、そのうち力一ラヤーは10軒あった。ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)と併称し、ヤジナケーマ(屋宜伸山)と言うこともある。ほんあ吉本字はタメーシ(玉代勢)であった。昭和14 (1939)年にはヤぎょうせいあざぶんりどくりつジヤードゥイ(屋宜屋取)とともに行政字として分離独立し、「玉上(たまうえ)Jとなった。これは、タメーシ(玉代勢)より標高が高いところに位置しているという意昧でついた名前である。それが、戦後には「玉上(たまがみ)Jと呼ばれるようになり、現在に至る。ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)、ヤジヤードゥイ(北谷・屋宜屋取)、ウアンダヤードゥイ(中城・大平屋取)、ヤジヤードゥイしぞくひらヤードゥイ(中城・屋宜屋取)の4集落は士族が拓いた屋取集落である。力一ラヤ一造り・(マチ)墓造りなどの大きな仕事は、この4集落共同で行なっていた。主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。また、集落の3 3軒のうち2軒以外からは、フィリピン・ペルー・ブラジル・アルゼンチンなどに出稼ぎに出ていた。各家に井戸があった。正陵の斜面から泉が湧いていたので、ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)は水が豊かだった。集落の真ん中を東西に走る道を境に、ウィーグミとシチャグミに分かれており、それぞれサーターヤーを持っていた。ウィーグミは屋号マチューアガリグヮー(マチユー東小):31の西側の三叉路のところにあり、シチャグミは屋号ナーカグワ一(ナーカ小): 7の北東じひ側にあった。サーターヤーの維持費は、砂糖1丁あたりいくらという風に賄われていた。個人のサーターヤーも3か所あった。嘉手納の製糖工場も利用していたが、ナケーマヤードゥイ(仲山屋取)は地形が悪いため、工場へ運ぶのが大変だった。そのため、すべて自分で製糖して、自分で売っていた。屋号マチューアガリグヮー(マチュー東小)と屋号ハナドーサチパルグワ一(花堂崎原小)が馬車を持っており、製糖の時期だけ馬車を出していた。タルガーは、砂糖120斤(72kg)、樽と蓋で15斤(9k g)を合わせて135斤(81kg)であった。那覇まで運ぶのに1丁15 ~ ウフンダつ2 0銭かかった。大平で積む場合には15銭だったので、そこまで担いで持って行って積んでいた。Lょゅうガンやガンヤーなどはナケーマヤードゥイ(仲山屋取)所有のものがなかったので、タメーシ(玉代勢)のガンを借りていた。屋号ヤマーアガリ(ヤマー東): 20の三叉路のところが広っぱに110 -力一ラヤー:瓦ぶきの家。《間取り調査風景》-マチ墓:亀甲墓の一種。墓のてっぺんにつむじの形の文様がある大きい墓。-サーターヤー:製糖小屋。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-タルガー・砂糖用の樽。-ゥフン夕、:中城村(現・北中城村)にあった大平屋取。-ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。圃ガンヤー:禽を納めておく小屋。

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