北谷町の綱引き
9/234

第一章北谷三ヵ村大綱引き(ウーンナ)の概要1.三ヵ村の概況北谷三ヵ村とは、かつて北谷の行政機関であった間切番所が存在した北谷村と、伝道村、玉代勢村を総称した名称である。この三ヵ村は北谷グスク南側に立地し、西は那覇から本島北部まで延びる街道に接し、村の前面には「北谷ターブックヮJと呼ばれた水団地帯が広がっていた。『北谷町史』等を参考にして、1935(昭和10)年頃の三ヵ村を復元したのが図1ー1である。これを見ると、西には馬場と県道が南北に走り、さらにその西側に沖縄県営鉄道嘉手納線が走っていた。馬場の東には北玉小学校があるが、これがかつての北谷間切番所跡である。北谷集落の北側には伝道集落、その聞には桑江殿内、ノロ殿内があり、道を隔てた玉代勢集落には、樹昌院があったa2.大綱引き(ウーンナ)の由来綱引きは沖縄本島地域を中心に宮古諸島、八重山諸島にもみられ、さらに奄美や日本本土、および中園、韓国にも伝統行事としての綱引きが行われている。沖縄ではいつ頃から行われていたのかは確定することはできないが、1713年に首里王府で編纂した『琉球園由来記』巻四に次のように記されている。綱引(唐称誠河)当園、何代始乎。効和漢之俗者欺。於大路中挽之。是争勇力之業、且国中有疫病時、払除疫鬼ト云テ引事也。1713年頃には沖縄でも綱引きが行われているが、いつ頃かということは確認できない。この記録を見ると「挽Jは「勇力を争うJの意に使われて、「引Jは「国中に疲病がある時にその疫鬼を払除するJ儀礼に使われて、早くから「挽jとf引jは使いわけられていた(平敷令治、1978: 41)。北谷においてもいつ頃から大綱引きが始まったのかは明らかにすることはできなかったが、北谷三ヵ村には「ウーンナは300年の歴史があり、毎年不作続きであったが、なぜか、寅年の時だけ豊作だったことから、これをお祝いして始めたのがきっかけで寅年に行っているけという伝承が残っている。

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る