北谷町の綱引き
76/234

3.衣装はじめに戦前の北谷三ヵは、現在のように軍用地料などもなく、農作業の中からの収入は限られていたので、大綱引き(ウーンナ)の衣装も、出演する演目によって、紺地(クンジー)あるいは芭蕉(バサー)、緋(イーチリー)と大まかな指定だけであった。着物の柄に関しては北谷村は百姓ムラであったので、柄物の着用は好まれなかったことから、地味な着物をつけていたという(末吉文さん談)。また当時は、字にムラヤー(村屋)があり村芝居の為の衣装が保管されていたので、村芝居の衣装をそのままシタクがつけたりしていたこともあったという(旧字北谷・照屋正吉さん談)。昔は手持ちの着物の中で一番良い着物からつける人が多かったが、13年に一度の大綱引きということで、新調した着物をつけてミチジユネーに参加する者もいた。1974 (昭和49)年に復活した北谷三ヵ村大綱引きは1998(平成10)年の大綱引きで戦後3回目となるが、大綱引きの衣装はそのつど各字の費用でもって新調されている。13年に一度ということから、着物の色や柄にも流行があり、回を重ねるごとに、艶やかで華やかな衣装に変化してきた。戦後の大綱引きでは、各字に数名の衣装担当者が選出され、その衣装担当者らによって衣装や小道具などが揃えられる。1974 (昭和49)年の大綱引きの際には、那覇市平和通り商底街桜坂付近の通称fイトマンヤー」でミチジュネーの演目ごとに30m"'40m程の反物を購入し、その反物を各字の衣装担当者が、大・中・小のサイズに裁断をしたものを支給して、各自で縫ってもらった。各字の地謡には、柄違いの既製品の浴衣を支給した。1986(昭和61)年の大綱引きからは、具志川市平良川にあるI津覇三味線底Jより、三ヵ字の衣装と小道具をまとめて購入し支給するようになった。(1)字北谷メンダカリ・字玉代勢①旗頭戦前の旗頭の衣装は、各自で白いシャツに白ズボンを用意し、頭にはマンサージを巻き、棒(タスキ)は、北谷でいうマヤーガーキー(胸部に樺をかける方法)をしていた、という(嘗山苗盛さん談)。1974 (昭和49)年の大綱引きでは、自のシャツに自の長ズボン。頭には紫色のマンサーながさーじジを巻き、紫色の棒掛けをして、腰には白い長巾を締め、脚には黒足袋を履いていた。1986 (昭和61)年の大綱引きでは、背中に「祭Jの文字がプリントされた青色の法被(ハッピ)に紫色の棒をして、腰には旗頭を支えるためのサラシを巻き、水色の長ズボンに白守t

元のページ  ../index.html#76

このブックを見る