北谷町の綱引き
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(6)ミチジュネーの演目(ミルクを含む)はじめに1926 (大正15)年の北谷三ヵ村大綱引きは、現在のような揃いの衣装はなかったが、婦人等は自前のクンジーに身を包み踊ったという。戦時体制が進むにつれ、学校行事やムラの行事にも変化が見られたロたとえば、1937(昭和12)年日中戦争が始まり日本が戦勝をあげるごとに、旧北谷村でも小学生らが学校行事として、それを祝う提灯行列をしたという証言があった。また昭和13年の大綱引きのミチジュネーの際には、子ども達は日の丸の小旗を振りながら歩いたという。そして、ムラに残された女性、子ども、お年寄りだけで簡略化して大綱引きをしたそうである。表2-2~4は、字北谷・玉代勢・伝道それぞれの演目を記したものであるが戦前に関しては、聞き取り調査で得られた範囲なので、今後の調査によっては増える可能性もある。①戦前戦前の三ヵ村大綱引きについては、1926(大正15)年と1938(昭和13)年の様子を聞くことができた。大正15年のミチジュネーも現在と同様に、先頭を飾るのは旗頭・ブラチリ・ソーグ(鉦鼓)・締太鼓の列であった。舞踊も表2-2の字北谷を例にとると、稲シリ節・上り口説・揚口説・下り口説・クヮデイーサー・前の浜・金細工・黒島口説・貫花・加那ヨー・チヂ、ユヤーで、1998年のミチジュネーと2,3の違いは見られるがほぼ同様の演目であったことがわかる。字玉代勢のミチジュネーの先頭には、なぎなたを持った女性が付いていた。また“ミルク(弥軌)"については、「戦前はなかったJr戦前から大綱引きに出ていたJなと、両方の証言があった。1938 (昭和13)年のミチジュネーに関しては、日中戦争が本格化して、青年達のほとんどは出征していたので、スネーや踊りがない簡単な祭りをしたが、フェーヌシマはやったそうである。②戦後1950 (昭和25)年と1962(昭和37)年の寅年には、北谷三ヵ村大綱引きは開催されなかった。大綱引きが復活したのは、1938(昭和13)年の綱引きから36年経過した1974(昭和49)年であった。1974 (昭和49)年のミチジュネーで、旗頭・ブラチリ・ソーグ・締太鼓・祝い節・サーサ一節の6つは、字北谷・伝道・玉代勢で共演された演目である。それらの演目に加えて字北谷は、ガーラシ・稲シリ節・上り口説・下り口説・クヮデイーサー・万歳・前ヌ浜・黒島口説・貫花・みなとくり・加那ヨー・南之島が演じられた。乙の中でも、ガーラシ・クヮデイーサー・南之島は字北谷に限られた演目で、1986年・1998年の大綱引きでも披-68-

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