北谷町の綱引き
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今回の大綱引きでは6月から練習を始め、北玉小学校で‘月・水・金曜日の週3回、約1時間程度練習した。ハ.期日戦前、フェーヌシマを踊ったことのある照屋正吉さんによると、戦前は12年毎の大綱引き以外に毎年9月に行われる北谷長老祭やムラアシビでも演じられたという。また、北谷出身の伊礼肇氏が衆議院議員に当選したとき、その祝賀会で演じられたり、1942(昭和17)年3月に嘉手納警察署がアマカービラから嘉手納大通りの南に移転しているが、その落成祝いの余興として読谷村字長浜の俸とともに演じたという(他、津嘉山孫栄さん.上間盛英さん談)。戦後は、1950(昭和25)年に戦争で離散していた住民が、北谷村に帰村した祝いが北玉小学校であった。この時にフェーヌシマが演じられた。しかし、それ以降1974(昭和49)年に大綱引きが復活するまで演じられることはなかった。1974(昭和49)年、大綱引きとともにフェーヌシマも復活すると、翌1975(昭和50)年に開催された沖縄国際海洋博覧会でも演じられた。また、最近では1999(平成11)年に具志川市で演じられている。ニ.装束上下黒の空手着を着る。その上から水色地に紫で縁取はっぴった袖無しの陣羽織のような法被(金城睦弘の報告では「ハウイ」と呼んでいる)を羽織る。1981年の大綱引きではメンダカリは紫、クシンダカリは黄色の縁取りであった。そして、プリント柄の五角形のクブシー(腹掛)を掛すねたてじまきやはんける。腔には白黒縦縞の脚粋を巻き、足は黒の地下足袋を履く。頭には赤毛のカンター(かつら)を被った。髪は、戦前はフィリピンウー(マニラ麻)やシマウー(芭蕉)の繊維を赤く染めた物を用いた。戦後は手芸用のビニールの紐を使っている。写真2-30フエーヌシマの装束今回はオレンジ色の紐を使用した。また、これまでlあごひもあごひも本の顎紐でかつらを固定していたが不安定なため、今回は顎紐を2本にして安定するように工夫している。ホ.小道具・楽器フェーヌシマー棒約126cmの棒の上端に直径約5.5cmの金属輪3本を取り付けてある。材料には堅くてよく擦る樫を用いている。戦前は馬車持ちに注文して北部から取り寄せた樫で、作った。今回はスポーツ庖に注文した。棒の長さは前固まで約106cmであったが、今回は演技者の体型にあわせて約20cm長く組4.Fhd

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