北谷町の綱引き
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これら「フェーヌシマ系の芸能は、沖縄本島及び周辺諸島では、旧暦七月・八月のムラ踊り(豊年祭)で演じる。宮古島の上野村宇野原は旧暦八月十五日のマストゥリャ一、上野村字新里は旧暦六月の豊年祭で演じ、多良間村は旧暦八月の八月踊りで演じる。八重山諸島では旧暦八月・九月の種取祭や結願祭、節祭で演じている。その他、不定期に催され(2) る民俗芸能大会等に出演して、上演の機会を得ているJという。北谷に伝わるフェーヌシマも名称だけでなく、前に挙げた諸特徴を有していることなどから、県内各地に分布するフェーヌシマ系芸能に類すると思われる。②北谷のフェーヌシマイ.由来北谷のフェーヌシマは、13年間のフーチゲーシ(風気返し、無病息災のこと)の神行但}事として、旧北谷村では字北谷だけに伝わるものである。その由来について、金城睦弘は「沖縄本島中部の南の島踊ー北中城村熱田、及び北谷村字北谷の事例ー」のなかで次のように報告している(金城睦弘、1976: 120)。北谷村字北谷における南の島踊も、またその由来等については不明である。ただ、若干の伝承者の中には宜野湾問切普天聞から入ってきたと言う人もあり、また、否定する人もあって、なお根気強い調査を必要としている。大正三年(一九一四年)以来北谷の南の島踊にかかわってきた八十九歳の古老金城睦定氏にも尋ねてみたが、明確な答えは得られなかった。今回の調査でも、この報告と同様「宜野湾から入ってきたJ(フェーヌシマの指導者である末吉清吉さんが古老から聞いたことがある)という話も聞かれたが、ほとんどの方がわからなかった。ロ.組織フェーヌシマの演技者は、字北谷出身の壮・青年で構成された。戦前は年齢に制限はなかったが、17--18歳から30代前半までの希望者の中から体格の良い者を選んだという。メンダカリ(前村渠)・クシンダカリ(後村渠)2組あり、各組鉦打ち1人、演技者12人の13人で構成されていた。戦前はその組の出身者で構成されていたが、戦後2回(1914・1986年)の大綱引きでは人数が足りないため、出身地に関係なく2組に分けたという。今回の大綱引きでは15歳から43歳までの字北谷出身の男性(鉦打ち2人、演技者22人の24人)で構成されていた。そのうち6--7人は前回の参加者であった。2組に編成することができないため、メンダカリ、クシンダカリ合同で演技した。練習は、戦前は10日ぐらい前から始めたという。仕事を終えた後、夜、ムラヤーに集まりメンダカリ、クシンダカリに別れて練習をした。練習のしすぎで筋肉痛になり、便所でかがむことができなかったという。町完OF同U

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