北谷町の綱引き
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安良波公園では、雄綱雌綱の周囲を反時計廻りでミチジュネーを行った。野外ステージ前を本部席とし、そこからスネーを開始した。スネーの先頭は、北谷のメンダカリで、その後を玉代勢が続いた。次に北谷のクシンダカリ、その後に伝道が続いた。北谷のクシンダカリが本部席を通過している最中に大雨が降ったので、伝道が本部席前を通過することはなく、ミチジュネーは中止となった。これらメンダカリとクシンダカリのミチジュネーとは別に北谷のフェーヌシマ(南ヌ島)が単独で列をなしスネーを行った。本来ならばメンダカリとクシンダカリ、2組のフェーヌシマがスネーをすべきであったが、1998(平成10)年は人数不足のため1組だけとなった。‘Tエ-言ロ(1) 玉代勢のハチカク(ヒャッチ)ドウールーと類似する型が、沖縄市泡瀬で見られた。泡瀬では、1908 (平成10)年11月l日に“泡瀬まつり大綱引き"を行った。そこで東の3旗ある旗頭のうちl番灯館、2番灯能の型が八卦の形をした灯館で、その上には燥が飾られていた。旗はそれぞれ馬の絵で閉口、開口となっていた。北谷三ヵ村の旗頭を桑江から泡瀬に移り住んだ浦崎さんに製作を依頼したこともあったことから、泡i額の旗頭との関係という点で興味深い。( 2 ) 字北谷のサーターグミは、ミーグミ(新組)・マージャグミ(真謝組)・メーグミ(前組)・アガリグミ(東紐)の四つのクミであったが、分離、合併を経てミーマージャグミ(新真謝組)・ミーアガリグミ(新東京且)・イリムティグミ(西表組)の7組となった(その変遷については、『北谷町史』第3巻資料編2民俗上参照のとと)。(3) 伊礼勝善さん(伝道)によると、北谷からの出迎えにはガーラシも参加していたという。(4) 浦添村(現市)伊祖から来たテンプラ売りであった。伊祖では婦人達を中心にテンプラ売りやテンプラ揚げ、田魚売り、ラッキョー売りなどを副業的に行っていた。テンプラ売りは、農閑期や闘牛、村遊び、運動会などの行事に行い、遠くは美里村(現沖縄市)や東風平村辺りまで出かけた。参考文献「北谷の綱曳」、『琉球新報』、1914(大正3)年8月17日。金城至盛、『字誌北谷』、19860|崎原恒新、「北谷三ヵ村の大綱引J、『まつりJJ31号、まつり同好会、19780北谷町史編集委員会編、『北谷町史』第3巻資料編2民俗上、北谷町役場、¥992。『北谷町史』第3巻資料編2民俗下、北谷町役場、1994。『北谷町史』第5巻資料編4北谷の戦時体験記(下)、北谷町役場、¥992。浦添市史編集委員会編、『浦添市史』第4巻資料編3浦添の民俗、浦添市教育委員会、¥983。『浦添市史』第l巻通史編、浦添市教育委員会、19890宜野湾市史編集委員会編、『宜野湾市史』第5巻資料編4民俗、宜野湾市、19850f北谷三ヵ村大綱引きjパンフレット、19Soo-51-

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