北谷町の綱引き
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(4)ミチジュネーと綱引き場の様子北谷三ヵ村の大綱引きは、戦前まで旧暦6月25日に北谷のンマイー(馬場)で、翌日26日は玉代勢のナカミチ(中道)で綱を引いた。ミチジュネーの開始は、午後1時頃で3"'4時に綱引きは終わったJ北谷で引く25日には、北谷のメンダカリとクシンダカリはそれぞれ、玉代勢と伝道を字界近くまで行って出迎えた。玉代勢のシチャンダカリ(イリ)は、部落内のヒージャーヌイーに集合し、屋号西門→屋号高志場→屋号花内の前を通り、そこから右に曲がり、屋号首里仲本→屋号桑江殿内の屋敷の裏道を通って北谷のスーガー(塩川・湧泉名)とケンドウ(県道)近くのT字路に出て、伝道と合流した。この時、北谷のクシンダカリ側がカ。》ーヌイ一橋グヮー(後のローラー橋)辺りで出迎えてくれた固北谷のクシンダカリと玉代勢のシチャンダカリ、伝道が揃うと、北谷のクシンダカリの旗頭を先頭に北谷のンマイーに向かった。この時にミチジュネーの順番をめぐって伝道と玉代勢でトラブルがあったようだ。ンマイーへは北谷のクシンダカリを先頭に入場するが、次に入場するのは伝道ということで玉代勢に対して「イッターヤアトルヤル。クマーリンドウヌサチJと言ってトラブルが起こった。中には「絶対に伝道は2番だからjと年配者が怒っヲミ尺棒を持って喧嘩になることもあったようだ。一方、玉代勢のイーンダカリ(アガり)は、部落内のムラヤー(村屋)に集合し、そこから田んぼ道を通り、北谷の屋号シーサーニーの前を通って北谷のメンダカリと合流した。シーサーニー付近で北谷のメンダカリが出迎えた。そこで合流した後、シーサーニーの前を通過し、西側へと進んでンマイーに出た。ンマイーに用意しである網の周囲は、六尺棒を持った青年達が立っていたそうだ。1938 (昭和13)年の大綱引きには、日の丸の小旗(紙製)を持って参加したという。ンマイーには、浦添や宜野湾方面から来たテンプラ屋やスイカ売りなどの出底もでた。ミージョーキーに飴を入れて売る者もいた。各家庭ではこの日にかぎり、ご馳走を作って家の中に置いて、綱引き参加者や見学者が家に上がって自由に食べられるようにした。また屋号サクマの方が北谷城の麓にあるスーガー(塩)1/)を囲って水を販売していたという。翌日26日には、玉代勢のナカミチに向けて、北谷と伝道が入場してきた。北谷のクシンダカリと伝道が玉代勢入りしてくる頃には、玉代勢のシチャンダカリが屋号桑江殿内の後ろで出迎えにきたという。その後、先の玉代勢のシチャンダカリが北谷に向かったような道順でヒージャーヌイーまでスネーし、そこで休憩の後に綱引き場のナカミチに向かった。また玉代勢のイーンダカリ側は、北谷のメンダカリが北谷の屋号シーサーニーを通って、タメーシアジマーという十字路を過ぎ、アリビラーという坂を上って玉代勢入りした。アリビラーの坂では、風当たりが強かったので旗頭を斜めにして行進したという。玉代勢に入ると玉代勢のイーンダカリと合流し、ムラヤーで休憩の後、ナカミチに向かってスネーした。北谷のメンダカリは、前日に玉代勢のイーンダカリがスネーしてきたようにシー-49-

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