北谷町の綱引き
37/234

② 玉代勢戦前、玉代勢は大綱引きの場合、北谷のメンダカリに玉代勢のイーンダカリ(アガリ)が属し、北谷のクシンダカリに玉代勢のシチャンダカリ(イリ)が属した。玉代勢にある2本の旗頭も二手に分かれた。玉代勢の旗頭は、戦前から牡丹の花を象った“ボタンドウールー"と、八角形で面に八卦を配した“ヒヤツヂ'¥あるいは“ハチカクドウールー"であったという。2本のトウールー(灯繕)の上には蝶が取り付けられていた。戦前まで旗頭は、ムラヤー(村屋)の天井裏に保管され、大綱引きの時期になると津嘉山政徳さんの父親が修理にあたっていたという。旗頭の骨組みは竹で作り、トウールーの下にはスルガー(綜欄縄)を下げた。2本の旗頭のうち“ボタンドウールー"は玉代勢のイーンダカリの旗頭で、大綱引きには北谷のメンダカリに属した。また“ハチカクドウールー"は玉代勢のシチャンダカリの旗頭で、大綱引きには北谷のクシンダカリに属した。旗に関しては、戦前どのような様子だ、ったのか、例えば文字が書かれていたのか、それとも絵だ、ったのか、は聴取できなかった。旗頭のバランスを保つには、縄とカイマタを使ったロ縄は旗竿に取り付け、旗頭が倒れかかるとその縄を引いて体勢を立て直した。カイマタは二叉に分かれた金具を鍛冶屋で作らせ、傾いた旗頭をカイマタを使って押し、その体勢を整えた。旗頭を持つのは青年の中から力の強い者を選んで持たせた。持ち方の練習は竹竿の先に20kg程のワラ束を括り付けて行った。持ち方は腰に巻いた帯の上に竿底を乗せ、それを前から手で押さえた。1926(大正15)年の大綱引きには、屋号カカジ(嘉数)、屋号テルヤ(照屋)、屋号アガリジョウ(東門)から旗頭持ちが出た。屋号アガリジョウからの持ち手は、その当時19歳(申年生)だった。1938(昭和13)年の大綱引きに照屋光久さんはシチャンダカリに属し、カイマタを扱う担当で旗頭は持たなかったという。戦後、1974 (昭和49)年の大綱引きには、戦前と違ってメンダカリとクシンダカリの一手に分かれることなく、全てメン夕、カリに属した。旗頭はボタンドウールーとハチカクドウールーで、製作者は桑江出身で後に現在の沖縄市泡瀬に引っ越した“桑江小のタンメー"と呼ばれた方であった。この時の竿頭の飾りは、竹で骨組みを作り、その周囲に紙を貼りつけた。ハチカクドウールーの側面には、“クーチンカー"という幾何学模様が施されていた。旗は「歓喜」と「招豊年jで文字の上に“玉代勢"と書かれていた。旗の縁は「歓喜jが青色、「招豊年Jが赤色であった。旗を掲げる横竿の先には、吹流しが取り付けられていた。旗竿には、椋欄縄を2~3ヵ所に分けて巻いた。また旗頭のバランスを保つために縄を付け、カイマタも使った。1986 (昭和61)年の大綱引きに玉代勢はメンダカリに属し、前回同様、2本の旗頭を出した。竿頭の飾りはボタンドウールーとハチカクドウールーを出した。ボタンドウールーのドには、ボタンの葉が4ヵ所に、またハチカクドウールーの下にはモンバイ(軍配〉を4枚取り付けた。旗の文字はボタンドウールーが「祈豊年j、ハチカクドウールーが「招nF“ qtu

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る