北谷町の綱引き
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シチュマカミラシと呼ばれる習俗があった(本文134頁)。興味深い伝承である。概して戦前の北谷村の綱引きでは、桑江、野里、北谷三ヵ字の綱引きに特色があった.旧桑江では小字ごとに綱をつくり、それを連結して引く「かんぬき複数型jであった。旧野里も同様であるが、野里では「マーラシーJといって3年越、13年越、25年越に大綱を引いたという(本文187頁)。沖縄では年忌習俗の普及にともなって、祝い事でも3年・7年・13年・25年・33年目に行う乙とがあった。たとえば、神役就任後の祝い、墓の竣工後の祝い、禽(ガン・野辺送りの際に棺をのせてかつぐ屋形)の祝い、等がそうであった。旧野里のマーラシーは3度の年回りに引く珍しい事例であった。マール綱の綱は大きいので、野里に限らず、シタクを乗せるのが一般的であった。旧北谷村で昼網を引いたのは野里と北谷三ヵ村の大綱だけで、あとはすべて夜網であった。野里では、綱を引くのに「ワワワワワワ、サ一、フイ、フイ、フイ・・・Jという掛け声をだしたという(本文186頁)。綱引きの雰囲気が伝わってくるような、他に例を見ないイートゥ(えと・掛け声)である。3 北谷の綱引きの特色北谷の綱引きも、前記の沖縄の綱引きの一般的特性をそなえていた。しかし、北谷三カ村大綱引きには特筆すべき要素が少なくない。①戦前、「かんぬき複数型」の綱をつくるムラが4ヵ字もあったこと、②戦前、野里でマーラシーと呼ばれる年回りの綱引きが行われたこと、③寅年に北谷・玉代勢・伝道の3郷友会(かつては字)による大綱引きが行われること、④1926(大正15)年までは北谷三ヵ村の大綱もfかんぬき複数型jの綱であったこと、⑤大綱引きのミチジュネーにフェーヌシマを演ずること、⑥大綱引きのシタクのガーラシでシタクが二度対時すること、が際だつた特色といえるだろう。県内では、糸満市字大里の6月カシチー綱は5年マール(年回り)、中城村字当問、豊見城村字保栄茂・字翁長では卯年と酉年(7年マール)、南風原町宇津嘉山は子年と午年(7年マール)、大里村字大里の6月26日の綱引きは13年マールで卯年に行われる。マール綱には年中の綱よりも大きな綱をつくり、行事としての規模も大きくなる。旧三ヵ字の郷友会役員と字実行委員数は、北谷が95人(女性11人)、玉代勢が112人(女性31人)、伝道が116人(女性29人)であった。女性の実行委員は衣装・舞踊・チヂン専門部の責任者である。7本の旗頭にかかった人数は総勢80人であった。ポラチリ、ソーグ、締太鼓、チヂンなどの鳴り物や、稲摺り節他13の舞踊に参加した会員は老幼男女合わせて、メンダカリが350入、クシンダカリが278入、合計628人に及んだ。フェーヌシマを演じた青壮年男性は24人であった。大綱引き直前の郷友会の世帯数・会員数は、北谷が362世帯・1,476人、玉代勢が123世帯・475入、伝道が71世帯・302人、合計556世帯・2,253人である。三ヵ村大綱引き実行委員(専門部会を含め65人)・郷友会役員・字実行委員・ミチジユネー参加者は、未就学児童及び高齢者を除く三ヵ字郷友会会員の過半を優に超えたと思-197-

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