北谷町の綱引き
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日があるムラが少なくないこと、6月中の綱引きが最顔型であること、カンヌキ複数型の綱の形が見られるなどの諸点をあげることができる。沖縄諸島では稲作儀礼として行われたのであるが、稲作をやめてしまった地域(それが大部分であるが)で、ワラを購入してでも綱引きをおこなうところに、現代沖縄の綱引きの特色がある。韓国のジュルタリキ(綱引き)は沖縄の綱引きによく似ている。任東権(1969)、萩原秀三郎・窪仁鶴(1974)、及び池春相(1994)によれば、稲作の字説儀礼として旧暦1月15日前後に引く例が多い。部落対抗、あるいは男女別に、東西か上下に分けて、引き合うという。一本綱を引くところもあるが、一般に雌雄の別の綱をつくる。沖縄と同じで綱頭をかんぬき型にして、雄綱の頭を雌綱のかんぬきに入れ、かんぬき棒を差し込んでつなぐ。畠〈えきはら雌綱の勝ちをもって豊作の予兆とす。る例も多いという。悪疫誠いや雨乞いのための綱引きせきてんきう串んた〈ぜんらなんどうけいしょうもあった(r釈集・祈雨・安宅JJ)。全羅南道の一部と慶尚南北道の一部で、綱の先端部に若者を乗せて双方の綱先をぶっつけあって、相手の網先を地面におしつけた方を勝ちとするコサウムとよばれる行事がある。ところによってはジュルタリキの前にコサウムを行う。そけん中国大陸における綱引き習俗の歴史は古く、戦国時代末期の紀元前3世紀に楚国で「牽官Jが始められたと伝えられる(11'高這最陥E』)。南北朝時代には「缶詰Jと呼ばれ、蒔げんこうばっか代の「牽鈎Jを経て、唐代以後「抜河jとよばれるようになった。惰代までは清明に引くじようげんならわしであったが、唐代以後に上元(正月15日)に引くようになったという(黄華節、1967)。直江慶治(1967)によると、湖北では近代に抜河が行われていた。二、北谷の綱引き1 北谷三ヵ村の大綱引き北谷三ヵ村の大綱引きは寅年に行われる。1938(昭和13)年に引いてから中断し、戦後の1974(昭和49)年に36年ぶりに復活した。1998(平成10)年には戦後3回目の大綱引きが行われた。なぜ寅年に行うのか、そもそもの初めにはそれなりの契機あるいは意味づけがあったのであろうが、既に伝承は失われている。戦前の北谷三ヵ村とは北谷・玉代勢・伝道である。沖縄戦後に三ヵ字はムラごとアメリカ軍の基地として接収された。旧字民の多くが北谷町内に散在している。旧字民で組織された郷友会が中心となり、北谷町当局の支援のもとに、「北谷三ヵ村大綱引きJをとりおこなうのである。北谷三ヵ村大綱引き実行委員会は実行委員長以下16人で、各字から4人宛選ばれた。第1回実行委員会が聞かれたのは1997(平成9)年12月であった。実行委員会の下に、大綱、-194-

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