北谷町の綱引き
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喧嘩沙汰に発展することもあったという。カニチ棒が立てられたまま綱が引かれると、雌綱側の地面には、カニチ棒が引きずられた跡が残ったという。また、カニチ棒を貫く人は誰という決まりはなく、1"'2入、力持ちが出て来て肩に担いで貫いたという。綱引きの際、雌綱はゆるやかな坂の上り側に引かなければならないが、不思議と雌綱側が勝っていた。また、カニチの合わせ方は雌綱をかぶせて連結しているので、雄綱側は下に、雌綱側は胸のあたりに抱えるようにして上に引いたという。ロ.シタクと示威行為雌雄の一番網がナカミチに入って来る際には、それぞれの網の上にシタクが乗って、空手や踊りを披露した。網は持ち上げられて挑ね上がるので、シタクは落ちないように綱に足を挟んでいたが、落ちることもあった、という。シタクには、20代の男性のなかから踊りがうまく、空手のできる者がなった。シタクを経験したという知念光良さんは、シタクの人数について双方二人ずつであったというが、他の伝承者から三人ではなかったかという意見もあった。戦前の野里では、毎年の綱引きのほかfマーラシーJといって3年越、13年越、25年越とマールジナ(まわる綱)があったという。これは人生儀礼の年忌に関連しているというが、最後の33年は長すぎるので25年マーラシーで一巡としたという。マーラシーにあたる年の綱引きには、雄綱にはイキガスガイ(男衣装)、雌綱にはイナグスガイ(女衣装)のシタクを乗せたという。イキガスガイは紋付きの着物に万、イナグスガイは羽織になぎなたを持った装いであったという。ハ.綱引きの時刻と引く回数午後の12時噴から部落の人たちがノロ殿内に集まり、双方からカシラがl人ずつ出て綱を下ろしてきた。午後3時頃、綱引き場に集まって準備が始まった。綱引きは2回行われた。1回目を引き終えると、雌雄の綱をつぐ一番カニチをはずし、勝った方は二番カニチもはずして、一番綱にシタクを乗せて持ち上げた。持ち上げられた網の上では、シタクの男たちが踊ったりした。2回目を引くときは、再度カニチ棒を買いて始めた。⑦双分組織野里では、ムラのナカミチを境に集落を南北に分け、北側をニシ、あるいはシリーと呼ぴ、南側をフエーあるいはメーと呼んだ。網を引く場合には、南側のメーをアガリの雌綱とし、北側のシリーをイリの雄網に分けて網を引いた。また、ある古老によれば、クシ‘は東の雄綱と呼ぴ、メーは西の雌網であるという。ムラを分ける呼び名には何通りもあるらしく、「メーとアガリに分かれるj、「クシとは言わないjとする伝承者もいた。-187-

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