北谷町の綱引き
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どと声を掛けて大人たちが手助けしながら、子どもたちが綱引き場のナカミチまで担いできた。ワラ集めから網作りまですべて子どもたちで行ったが、まかせきりというわけではなかったという。カニチグチまで綱を寄せると、雌綱の輸を上に向けた状態で後ろに反らせておき、雄綱を立てて、そのまま差し込むようにして連結させた(図3-8参照)。屋号メーヌヤー(前ヌ屋・イリ)と屋号カーヌウィー(カーヌ上・アガリ)辺りがカニチグチであった。カニチ棒を貫くのは青年たちがおこない、子どもたちにはさわらせなかったという。シタクは出なかった。ロ.綱引きの時刻と引く回数綱引きは、夕食をすませた午後8時墳から引くユルジナ(夜綱)であった。綱引きは2回行われたが、2回とも真剣に勝負を行った。母親たちは応援をしながら綱の後ろを引いて加勢したという。⑥双分組織と綱引きの運営字伝道の綱引きは、字内の子どもを中心に引くワラビジナであった。綱引きの中心となる子供たちの年齢については、尋常小学校の男子だけという人や、小学校1年生から8年生(高等科2年)までという人もいた。また、網打ちをはじめ綱引きの準備などは、父親やムラの男たちの指導の下、アガリとイリの子どもたちが行った。アガリはリンドーガー(村川)のすぐ側のガジマルを利用して綱を打ち、イリは屋号パシガーイリーと、屋号ナガタイの間にあったガジマルを利用して網打ちをおこなった。綱引きは、幅2間程(360佃)の道を境にして、イリ(屋号メーヌヤー側)の雌綱とアガリ(屋号カーヌウィー側)の雄網に分かれて引いた。また、アガリをイーンダカリ、イリをシチャンダカリともいった。綱を引くときは、父母や他の大人たちも加勢して両方勝たせてあげたが、あくまでも綱引きの中心は子供たちであった。女性が網を引く場合は後方で引いた。大人は字の綱引きが終わると、字北谷の綱引きを見物に行った。⑦祭把儀礼伝道でも、豊作などの願いを込めて綱を引いたという。大綱引き(ウーンナ)のメーウガミ(前拝み)のようにムラをあげて拝所を巡拝することなどはなかったが、子どもたちの綱引きが終了すると、ムラのヤクミ(役目)や有志らによって、豊作とムラ人の健康を願うカニチ焼きの儀礼が行われた。イーンダカリはカーニーモ一、シチャンダカリはモーグヮーメーでカニチを焼いた。カニチ焼きには、ワラ束を焼くこともあれば、あらかじめ準備したワラ人形を焼くこともあった、という(伊礼勝善さん談)。各家々では、6月カシチーウユミといって、白カシチーを作ってお供えしたり、他家に嫁いだ姉妹に対し兄弟からの、『シチュマカミラシJもおこなわれた。-174-

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