北谷町の綱引き
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第二章北谷三ヵ村大綱引きの構造1.綱の材料と綱の形態(1)綱①戦前綱は雌雄1本ずつで材料は稲ワラであった。材料の稲ワラは集落内でまかなえたようである。戦前の綱引きに関しては聞き取りが充分でなかったためこれまで紹介された文献から見てみた。三日程前から、各々の組頭が銅鐸鐘を鳴らしながら村の通り毎にあるくと、それぞれの家庭で何束必要か判っているので、門の前に準備しておしそうすると、銅鐸の後ろを追う子供たちがそれを運び集め、最終的には前ン渠の村屋にあつめ、大きなガジュマル下で役割分担をきめて作業をはじめる。3日目の午前中には直径1m、長さ100mの雄網と雌網ができあがり、馬場に運ばれ夕方まで待った。(0'字誌北谷J: 135) 綱は、太さが約70cm・長さが約100mもある大綱で、馬場の南側に雌綱・北側に雄綱を前もって準備しておいた。(0'北谷町史第三巻民俗下'J: 62) 1986年の『北谷三ヶ村大綱引き』パンフレットによると、昔の綱は、メージナ、ナカジナ、クシジナと雌雄それぞれ3本ずつからなる綱となっている。ティーンナ(手綱)の本数などは不明である。②戦後1回目(1974年)網は雌雄それぞれ1本で、材料は稲ワラであるロ戦後は水田がないため、材料の稲ワラは名護市字羽地から購入した。『北谷町史』によれば、乙の頃までは綱に関して不明な点があったようで、与那原の網を調査し補ったようである。また、綱の作製に関しても屋慶名から技術を導入して作製したようである。綱の長さは約100mほどで、直径は約布団ほどであった。ティーンナ(手綱)の本数と長さは不明であるが、直径は写真から推測して9cmほどであったようである。註(I) 1926 (大正15)年の大綱引きではこの形態であったとの伝承あり(高江洲敦子確認)-10-

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