北谷町の綱引き
169/234

をはじめ、年中行事などの責任者であった。また、1号、2号、3号(f号Jとは、戦争直前に字北谷の旧集落を1号・2号、分家が多かったカニク・メーヌハルを3号として分けたムラの下位区分、『北谷町史』第三巻:58)からはサジと呼ばれる連絡係が1人ずつ出た。綱引きは、2人のスーガシラを中心に、4人のニーセーガシラらを補佐役として運営された。綱引き後のカニチ焼きも男性役員らが行った。毎年の綱引きには、カネは使用したようだが、特別な綱引き歌やそのリズムを取るチヂンなどはなかったようである。綱の保管は、イリペーチングヮーのアサギや、キチンミの空き家などを利用した。⑦祭杷儀礼戦前の字北谷では、綱引き当日(旧暦6月25日)になると字のヤクミ(区長・スーガシラ・ニーセーガシラなど)らが、村屋の敷地内にまつられる火ヌ神を拝み、綱引きの成功を願った。ノロ殿内では、6月カシチーウユミと称して白カシチーやお汁などを供えて、家族の健康を願うほか、北谷ノロがノロ殿内の神仏に綱引きの安全と、その加護を願った。昭和13、4年ころまで毎年行われていた字北谷の綱引きは、集落を南北に二分し、北側をクシンダカリ(雄綱)、南側をメンダカリ(雌綱)として勝負を2回おこない、クシンダカリの雄綱が勝利をおさめると、豊作になるといわれた。また、綱を引き終えると雌雄の綱組のメンバーらがカニチグチ付近で、ワラ束を焼くカニチ焼きの儀礼があった。カニチ焼きとは、あらかじめ準備したワラ束に火を点け、そのワラ束を高くかざしてぶつけ合った後、ワラ束を川や溜め池に投げ入れる儀礼であった。クシンダカリ(雄綱)は、戦前の集落北側に位置したスーガー(塩川)近くのローラー橋(ティーイ橋)の上からワラ束を用水路に投げ入れたり(照屋正吉さん談)、屋号川小ヌ上近くのガジマルの木の下に放置したりした(仲村新正さん談)。メンダカリ(雌綱)は、綱引き会場であるンマイー(馬場)の南端に位置したンマアミシグムイ(馬を浴びせる溜め池)にワラ束を投げ入れた。カニチ焼きの儀礼は、スーガシラや、ニーセーガシラ(二才頭)を中心に字の男たちによって行われる儀礼であった.さらに、戦前はこの日に実家の兄弟が婚出した姉妹に対し、新米で炊いたご飯を御馳走したり、お土産としてムイブン(スンカンマカイに大盛りにしたご飯)を持たせたりするfシチュマカミラシJの行事もあったが、現在は行われていない。戦後は例年の綱引きは途絶えてしまったが、北谷ノロ殿内では、1988(昭和63)年の『綱のカヌチ根軸Jの石碑建立以来、旧暦6月24日には、乙の場所において網の神への拝みを行うようになった。翌25日には6月カシチーウユミとして、ご飯、ソーキ汁、刺身などをノロ殿内の神仏や、母屋の仏壇に供えて、家人の健康や字民の健康、そして字の繁栄などを願う。旧字北谷郷友会からは、郷友会の三役をはじめ、郷友会の有志らが綱引きに関する拝みを、戦前の村屋に代えてノロ殿内で行っている。-170-

元のページ  ../index.html#169

このブックを見る