北谷町の綱引き
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雄綱と、クシベー(イリ)の雌綱に分けて網を引いた。しかし、実際には当時の40戸程の戸数をメーベーと、クシベーの人数が平等になるよう調整などもおこなわれたので、毎年変わる流動的な組分けであったともいう。例えば、ヤーワカヤー(分家)などでアガリの人数が増えたら、アガリの人であってもイリを引いて人数のバランスをとったという。昭和以前に、一度だけ他ムラの人も参加させて網を引いたことがあったようだが、その後はムラの老若男女に限定した綱引きに戻った。綱引きには、チナガシラやニーセーガシラなどの行事責任者はいなかった。平安山では、字の有志らが綱引き行事での役割を分担した。字の有志らは年齢によって呼び方が異なっていた。25歳までの男性をf青年j、30--40歳代の男性を『若長老J、それ以上の男性たちをf長老Jといった。綱引き行事は、長老の指示のもと、若長老と青年たちが実際の運営にあたった。また、松明(テービー)を持ったのは、主に長老たちであった。さらに尋常小学校6年生から高等科までの子どもたちが太鼓や銅鐸を担当するなど、ムラ全体が綱引きの行事に関わっていた。平安山では、男女ともに綱引きに参加できたが、妊婦に関しては「綱を引いてはならないJ、「綱を桃び越えてはいけないJというようなタブーがあったようである。⑦祭杷儀礼戦前の平安山には、砂辺・浜川・伊礼・桑江・平安山の五ヵ字を管轄する平安山ノロがいた。平安山ノロは、5月ウマチーと6月ウマチーの二ウマチーには、五ヵ字を回って祈願をおこなった。しかし、旧暦6月24日の綱引きに関連するノロの拝みや、平安山ムラのヤクミ(役目)らによる祈願などはなかった。ただし、平安山でも綱引きの行われる旧暦6月24日をカシチーウユミと称して、各家庭では白カシチーや、豆腐ンブサーなどを神仏に供えて家族の健康を願った、という。-157ー

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