北谷町の綱引き
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【1997年7月18日(1日暦6月14日)】19 : 30 ニードゥクル(根所)での拝み終了。20 : 20 ボラやドラ鐘が鳴り始める。ナカジンでの持み(知念正ーさん)20 : 40 照屋商底前では、鳴り物での嚇しが始まっており、網も用意されている.20 : 57 人々が集まり出したので、一斉に鳴り物を鳴もして、網を引く用意をする。21 : 08 中央に集合して、旧字戸主会の宮平自信さんから説明があり、綱引きが始まった。道を境に東と西とに分けているが、人数を調整して均等に分けた。1回目:まず東に引いて、西に引いて、東に引いてスタート。東の勝ち。2回目1回目とは場所を入れ替える。2回目はまず、西に引いて、東に引いて、西に引いてスタート。西の勝ち。綱を引き終えると中央に揃って鳴り物を鳴らしあい、カチャーシーが始まる。21 : 18 終了。その場で酒盛りになる。③綱の材料と綱の形態イ.綱砂辺では水田が少なかったため、綱の材料となる稲ワラは字北谷から購入していた。購入資金が字費で賄われたのかどうかは定かではない。網打ちはメンダカリ(雄)がアシビナー(現砂辺公民館)に生えていたガジマルを利用し、イリンダカリ〈雌)がメーヌチャングヮー(前喜屋武小)屋敷横のサーターヤー(砂糖小屋)にあった大きなガジマルの木を利用した。綱は雌雄の綱とも一番綱と二番網の2本からなっていた。雌雄双方の一番網には両端にカニチ(かんぬき)があり、前方のカニチは雌雄の綱を連結するもので、直径約60c皿程であった。後方のカニチは双方それぞれの一番綱と二番網とを連結するものであった。二番綱は両手でもって引ける程の太さであった、という。双方の一番網、二番網それぞれの長さについては不明であるが、雌雄の網を連結すると、約100m程の長さになったようである。また、雌雄の一番網には大人5、6人が引けるティーンナ(手綱)が付いていたようだが、その本数については不明である。戦後、米軍用地として接収されていた砂辺集落だが、1954年に返還された後は、かつての集落を形作れるようになった。そこで1962(昭和37)年には米軍払い下げの1本のロープを利用して綱引きが再開された。ロープの材質は不明であるが、当時沖縄本島中部の小中学校の運動会でもよく活用された麻製のロープであったと思われる。現在の網は、那覇市内にて購入した全長約100m、直径約6cmの1本の麻製ロープである。ロープの中央には色の異なる布が3枚結ばれ、中央から1""2m後方の位置には青い布が結ぼれている。-141-

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