北谷町の綱引き
143/234

【下勢頭】下勢頭は、1925(大正14)年に字浜川と字平安山から独立した雇F最集落である。先住者の佐久川家にちなみ佐久川屋取とも称していた(図3-4参照)。北は野里集落と接し、東は上勢頭、南は平安山、西は浜川集落と接していた。戦後は、米軍嘉手納飛行場として集落のほぼ全域が接収され現在に至っている。【平安山】平安山は東シナ海に面した集落で北は浜川、南は伊礼集落と接していた。西側の海岸よりには沖縄県営鉄道が走っていた(図3-5参照)。大正14年までは上勢頭・下勢頭も含めていた。また、集落の北側には平安山ヌ上という屋取集落がある。1902(明治35)年には、北谷尋常高等小学校、1911(明治44)年には村役場が北谷から移転し、さらに県道や県営鉄道平安山駅も設けられたため、戦前の北谷村の中心的な役割を果たしていた。現在は集落のほぼ全域が米軍キャンプ桑江として接収されている。現在の地籍区分では字伊平となっている。【桑江】東シナ海に面した桑江集落は、北に桑江ヌ後、南に桑江ヌ前、西に桑江ヌ中という屋取集落が広がっていた。西側の海岸よりには県営鉄道が走り、その内側には県道が設けられていた(図3-6参照)。戦後は集落の全域が米軍キャンプ桑江として接収された。戦前の集落は、キャンプ桑江内の海軍病院付近に立地していた。【北谷】北谷集落は、北谷グスク南の平野部に位置しており、近世には間切番所が設置され、当時から北谷の行政の中心であったことがうかがえる。集落の西側は馬場に接して県道が南北へ走り、県営鉄道もその西側を走っていた。戦前はこの馬場で、北谷大綱引き(ウーンナ)が行われた(図3-7参照)。戦後は米軍キャンプ瑞慶覧として集落の全域が接収された。現在の国道58号、北谷交差点南東側方向が当時の集落の位置である。【伝道】伝道集落は、北谷グスク南側斜面に位置しており、北谷三ヵ(北谷・伝道・玉代勢)の中では最も規模の小さい集落である。戸数も昭和20年頃でも26軒ほどであった(IT'北谷町史』第五巻:55-56)。集落の南側には北谷集落が接している(図3-9参照)。戦後は米軍用地として集落の全域が接収された。【玉代勢】玉代勢は北谷集落の東側に位置しており、規模は北谷集落の1/4ほどであった。集落の西側には、北谷長老で有名な樹目院や、樹昌院歴代の僧の墓所である長老山があった(図3ー10参照)。この集落も戦後、米軍キャンプ瑞慶覧として集落の全域が接収された。【野里】野里集落は、野国川の北側に位置していた。『嘉手納町史.!I(1990: 37)には「北谷村中の本字で最大の戸数を擁する大集落で、戸数300余と言われたjとある。嘉手納町史に収録されている集落図に一部加筆したのが図3-11である。この図から当時の野里集落が、整然と区画されていたことがわかる。しかし、戦後は米軍嘉手納飛行場として接収され、現在は残っていない。また、1948(昭和23)年の分村により現在は嘉手納町に属している。-138-

元のページ  ../index.html#143

このブックを見る