北谷町の綱引き
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[1986 (昭和61)年]メンダカリ:①宮城健一②S44・酉・17歳③アメク①照屋重光②S42・未・19歳③カニクティーラグヮークシンダカリ:①照屋淳②S45・成・16歳③イリティーラグヮー①曽山和彦②S44・酉・17歳③イリペーチングヮー日998(平成10)年]メンダカリ:①仲村哲治②S54・未・19歳③ナカンダカリ①安里和記②S56・酉・17歳③シーサーニークシンダカリ:①仲村時博②S55・申・18歳③ジオーイージグヮー①島袋善俊②S52・巳・21歳③クヮーシヤーガーラシ専門部:金城至佑・津嘉山操・津嘉山信行H 衣装係:仲村渠敏子H 誘導係:伝道有信(クシンダカリ)・仲村駿一(メンダカリ)1974(昭和49)年にシタクをつとめた津嘉山哲也さんによると、当時シタクに選ばれてちゅうちょ臆躍していると、あるお年寄りから「うまんちゅ(万人)Jの「うま」にかけて午年の津嘉山さんが選ばれたのだから、絶対に断つてはいけないといわれたという。しかし、上記の歴代のシタクを見てみると、特に午年生まれに限られていることはない。その他の共通点も見当たらないので、年齢や干支に関する特別な選考条件はなかったと思われる。②衣装とその管理イ.シタクの衣装戦前は、シタクや踊りの衣装などはすべて個人で持ち寄っていたという。大綱引き(ウーンナ)のためならといって着物を買うところもあったが、ほとんどの家は金銭的ゆとりがなかったので、砂辺や下勢頭など、ムラアシビの盛んな地域や親戚などから借りていたようである。大綱引きの準備費用をはじめ、シタクや踊りの衣装などを字費で賄うようになったのは、やはり戦後の軍用地料の影響である。戦前と1974(昭和49)年の衣装について、「七四年のときは間にあわせで沖縄の士族の黒衣の着物をつけたが本来はヨロイ、カブトにハカマをつける。組踊の按司の衣装を使っていて以前はそれを他村から借りてやったものであるという。ソージの上にのる二人の内一人は按司で万と軍配、お供は組踊のお供の衣装で万をさす。メーベー(メンダカリ)はミージナなので女装した男二人、内一人はウミナイビであと一人はお供である。今回のツナでは白衣、二人とも白鉢巻それにナギナタを立ててもっていた。J(崎原、1978: 82)とある。戦後の記録(写真2-120'" 124)を見ると、1974(昭和49)年と1986(昭和61)年・一102ー

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