北谷町の綱引き
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〆~自足袋を履いて黒鼻緒の草履である。手には大扇を持ち、腰には万をさしていて、立派な出で立ちである。供は島袋善俊君が選ばれ、青地に金糸で文様が施された頭巾を被り、冠には月の形(写真2-118)が施されている。着物は青地で金色の帯をしめ、腰には万をさしている(写真2-119)。ズボンにキハンを巻き、自足袋に黒い鼻緒の草履を履く。衣装に関することでは、現在の青年たちは背丈が昔より大きくなったので、今回は採寸して仕立て直しをしようとしたが、綱引き当日以外は宇111を通してはいけないということで採寸することができなかった。それで中からつける肌橘杵とかさね衿は取替え、ステテコと足袋は購入した。着物はゆきl隔写真2-119 がとれないぐらいのぎりぎりの大きさであったので、次回新調するためにも採寸しておき、北谷ノ口殿内と相談して衣装を新調するということを考えていると担当の仲村渠敏子さんが話していた(P86.87:按司と供の衣装サイズ参照)。1974年の場合、衣装は黒衣装にラメが入っていた。写真資料からは覆面をしていることが確認できた。1986年に最初登場する時に覆面をしていた。戦前に関しても1938(昭和13)年の支度は黒地の衣装に覆面をしていたという(仲村信正さん・仲村渠敏子さん談)。今回1998年の衣装は1986年の衣装と同じであったが、覆聞はしていなかった。⑧ その他1974年の綱引きのプログラムが「北谷三ヶ村の大綱引J(崎原恒新、1978 : 86)に収録されているが、それによると上述した演目以外に、クシンダカリでは嶺舞踊研究所が行った「獅子舞jや、字北谷が行った「村ー興しJrめでたい節Jrサーサ節jなどがある。この「村・興しJは、字北谷の人だけではなく、他字にもお願いして参加してもらった(仲村渠敏子さん談)01998年の綱引きの時には字北谷の場合メンダカリは踊ったが、クシンダカリは踊らなかった。さらに字伝道においても「サーサ舞しり「めでたい節jが演じられたようである。そのほかに1974年、1986年と「なぎなたjを嶺舞踊研究所が演じた。-97-

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