北谷町の自然・歴史・文化
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護市)、グ)-'-宝?主主:郡一一の目嘉か宣明?mvミヮ村(今の具志川市)ZえはhvLHやたかえすの前原・塩屋・高江洲、のだけの野嵩などの収容所に収容され越来村(今は沖宜野湾村(今の宜野湾市)縄市)ました。米軍のよ陸直後に捕虜どなって砂辺の仮収容所に収容された人々も、中城村比嘉(A7は北中城村)にしばらく留められたのち、国頭郡・中頭郡の久ロ収容所送リどなりまLたが、多くは宜野座・福山地区近辺の収容所に収容されました。なお、軍人・軍属ど一般住民どはきちんど区分され、軍人・軍属は金武村の屋嘉等の捕虜収容所に、一般住民は全島各地の民間人収容所に収容されました。捕虜収容所ては、さらに日本兵(沖縄県外出身者)、沖縄出身者、朝鮮人に分けて収容されました。各民間人収容所のある地区には、米軍人の地区隊長以下数人の軍人が配置され、その下に米軍政府が任命した沖縄人の村長または市長(メイヤlど呼ばれた)が置かれ-Lた。しかし、このメイヤlは現在のような市の行政担当者ではなく、収容所の住民へ米軍命令を伝達Lたリ、作業の手配や物資配達、住居建設、治安維持、環境衛生等の住民の世話にあたるのが役目でした。かんぼう54うい収容所内の住民は、しさしあたり「艦砲の脅威」からは解放されたものの、日々の生活は決して楽なものではありませんでした。生きていく為に必要な最小限の衣食その他の日用品は米軍から配給されましたが、特に食べ物が不十分で、みんな食糧確保に苦労LまLた。衣服はGI服などの配給を受け、それを適当に作リなおLて着けまL沖縄戦のようすた。老人や子供、病気の人以外は、すべて共同作業にかり出されまLた。作業内容は、学校その他公共建物(いずれも仮小屋)の建設、荒れ地の開墾・農耕、道路補修、米軍関係施設・病院等の清掃や衣類の洗濯などてLた。また、一五オ前後から五Oオ程度までの労働力どなる男の人たちは、有刺鉄線て固まれた「カンパン」ど呼ばれる合GI--OO〈由「コヨ由コ円一印印C目的の頭文{圭セ取ったもので、アメリカ兵の俗称。言葉の意味は「官給品(政府から支給された品物)」。え5

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