北谷町の自然・歴史・文化
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業に従事していまLた。太平洋戦争初期に、下におさまLた。日本軍は次々ど南洋群島を占領し、統治府繊維を取るために栽培される植物で、麻袋(穀物用の袋)や麻縄(マニラロープ)などの原料となります。フィリッピン諸島で多く栽培され、戦前沖縄から移民としてフィリッピンに渡った多くの人々が、麻山での労働に従事しました。どころが、戦争末期には日本軍の敗色が濃くなリ、南洋群島は全島を米軍が占領しました。久ロ島在住の県民は、モれぞれの島へのアメリカ軍上陸作戦による戦いに巻き込まれました。直接砲火による被災のほか、麻山や深い山の中を逃げ回るなかて、飢えや病気でなくなったリ、日本統治下のやリ方に反感を抱いていた現地住民の報復などもあったりで、たいへんな苦労をしました。サ・イパン島のイクリフからの集団飛び込み自殺」「パンザは、当時の南洋群島の悲惨な状況を象徴する代表的な出来事てした。久口島収容所に収容された県民は、財産を没収されて命からがら米軍の船て沖縄に引さ揚げてきました。引き揚げ者は沖縄市高原のインヌ、こ収容所に一時収容され、各自身寄リを求めて出身地の町村に戻っていきましたが、故郷沖縄も戦争て完全に破壊されて無一物の状態てあリ、生きるための苦難の道を歩〈こどになリました。敗戦と収容所ヘ」イL、一九四五年の四月から六月までのおよそ三か月沖縄戦のようす問、地上戦の戦場どなった沖縄は、「鉄の暴風」ど形容されたほどのすさまじい砲弾の雨にさらされました。沖縄本島の中南部の地域は、まどもな樹木はほどんど残らないほど、文字通り焼け野原どなってしまいまLた。沖縄パンザイクリフ73

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