北谷町の自然・歴史・文化
95/290

こどもあって、大きな戦いはなく米軍の一方的な攻撃にさらされまLた。一方、南部では首里の日本軍総司令部を中心に浦添一帯、て激しい戦いどなりましたが、武器弾薬や食糧など物資の豊富な米軍に対L、食べ物でさえこど欠く日本軍は戦いどころではなく敗退を続け、ついに本島南端摩文仁(糸満市)にいたってにげ場を7L仁1みつるLれいhuん失い、六月二三日牛島満司令官の自決によって日本軍の組織的な戦いは終わりました。この沖縄戦ては軍人だけでなく、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」その他各塔て知られる女学生や中学生を含め、老若男女すべての県民が巻き込まれて数多くの戦死者を出しました。およそ半世紀たった今日でさえ、遺骨の収集がまだ終わらないのです。牛島指令官の自決によって三か月に及んだ沖縄戦が終リ、実質的な米軍の占領支配む仁4ヲけんこヲA〈ご日本の無条件降伏後に、東京に置かれたGHQが始まりまLた。(連合国公式には、最高指令官総司令部)が南西諸島の占領統治を公表Lて米軍の長期支配が確定するわけですが、米軍は沖縄本島上陸間もない一九四五年四月一三日に米国海軍軍政府を読谷村比謝に置さ、同時に米国太平洋区域司令長官ご二一ッヅ提督の名、て、「、こニッヅ布告」どよばれる布告を発表し、南西諸島を支配下におく宣言をしました。これを第一歩にして、一九七二年の祖国復帰まで二七年間におよぶ米軍支配が続くこどになりました。沖縄戦のようす外地での戦争体験沖縄からの海外移民は、一八九九(明治三二)年のハワイ移民が最初ですが、この中には北谷村氏は含まれていませんでした。一九O四年にハワイ、フィリピン群島、牛島満司令官鹿児島県出身の陸軍中将。一九四四(昭和一九)年に沖縄防衛第三二軍司令官となり沖縄に着任。一九四五年六月一一一一百、沖縄本島南部摩文仁のEの洞窟内の軍司令部で自決し、沖縄戦が終結しました。刀

元のページ  ../index.html#95

このブックを見る