北谷町の自然・歴史・文化
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歴史の移り変わり北部の山中を逃げ回っている間の人々の毎日は、かんばヲしゃげさ艦砲射撃、昼間は飛行機からの機銃掃射があって、ひさんたいへん悲惨なものでした。夜Ii に気を配る必要があリ、山の中でも上空から見えないよう自由に動き回るこどができなかったのです。また、煮炊きをするどその煙、が米軍機に見つかるどいうこどで、日中は火が使えませんでした。何よリも困ったのは、食糧が底をっき、食べるものがなくなったこどでした。何回も水ど黒糖のかけらや、タビオカど呼ばれる作物からどれた白いでんぷんを水にどかした「クズ水」やつわぶきの茎などて飢えをしのいだのですが、栄養が不足してむくんだ足を引きずって歩き回りました。ちょうど梅雨時ど重なリ、夜になって、木の枝を折リ敷いて横になった背中の下を、雨水が容赦なく流れていきました。このようなようすでしたから、衛生状態も極めて悪く、病気になる人や栄養が不足して体力がなくなリ死亡する老人や子供が多かったのです。日本軍の後方が安全だどいうこどで、沖縄本島の南部に移動する日本軍を追って島尻方面に避難した人々もいました。戦争は南部が激戦地どなリ、軍人から一般住民まで全滅に近いほどの死者を出L、わずかに生きのびた人々も言葉てはいい表せないほどのたいへんな目にあいました。沖縄戦の経過米軍は一九四五年三月二六日に慶良間諸島を占領したあど、琉球列島攻略の最後の作戦どLて、前に述べたように、四月一日沖縄本島中部の北谷・読谷の海岸から上陸し、本島北部ど南部両方向に進撃しました。日本軍の配備が手薄だった北部地区は、70 山原の山中を逃げまわる県民タヒオカ食用植物の一種。根の部分をすり下ろし、水を加えて布でこし取った白い溶液を乾燥させると純白のデンブンが得られます。食べ物のない戦時中は、この固形一アンプンを代用食の一つとして水に溶かして飲みました。つわふき沖縄の山野に自生している蕗の一種。通常食べることはほとんどありませんが、戦時中飢えをしのぐためにその茎の皮をはいでゆでて食べました。

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