北谷町の自然・歴史・文化
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ました。この攻撃で、北谷村ても民家のほとんどが焼け、人々は命からがら防空壕に逃げ込みました。役場の建物どどもに重要書類等もすっかリ焼けてしまいまLた。米軍の砲火のすさまじさを体験した人々は、準備もそこそこに北へ北へど避難を続けました。それでも、中には「この戦てはどこにいても同じこど、どうせ死ねなら自分の家、て死んだ方がまし」ど避難せず、村内に残った人々もかなリ居たこどが後でわかりましこの残った人々のた。米軍の上陸地点が北谷村砂辺から読谷村海岸であったので、ほリよだいいらこう部が米軍の捕虜第一号どなリ、砂辺海岸に急ごしら、えに設けられた収容所に収容され生41L4に。米軍上陸と北谷太平洋戦争終戦間近の一九四五年四月一目、米軍は沖縄本島へのよ陸作戦を開始しました。上陸地点は北谷・読谷一帯の海岸、て、ここを起点に沖縄本島の北部ど南部の両方面への進撃にうつリまLた。五日頃には北谷村氏の避難先の羽地村にも四月四、戦火がおよんだので、人々は羽地の山中に逃げ込みました。北谷村役場羽地分所もは沖縄戦のようすたらさを失いましたので、そのあど多くの北谷村氏はそれぞれの家族の考えて行動すげんかやZるほかなく、「源河山」(今の名護市)を中心どする山原の山中をさまよい歩くこどにせだけかようなリました。そして終戦まさわの六月頃に本島東海岸の「瀬嵩」「嘉陽」(今の名護市)に出てしばらく留まリ、その後中部方面に向かう途中北部の久志(今の名護市)あたリて米軍の捕虜どなリ、収容所送リどなリました。収容所沖縄戦当時、米軍が住民や捕虜となった日本兵を収容するために設けた施設。軍人と一般住民は区別して収容しました。アメリ力軍の沖縄本島上陸69

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