北谷町の自然・歴史・文化
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歴史の移り変わり沖縄戦のようす戦争直前のようす美しいさんご礁に固まれた沖縄島は「うるま島」ども呼ばれ、第二次世界大戦の始まる前まて、日々のどかに暮らしていました。人々は農業を中心どした仕事にはげみ、レぃ、コ斗1十品ーユん亡斗寸lh「北谷タiブyクヮ」ど呼ばれた豊かな水田て県下に知られ、典型的な農村てした。その頃は、誰一人どして、この平和な島、が「世界大戦」、Lかも近代兵器を大量につぎ込んだ「近代戦争」に巻き込まれるこどなど予想もしませんでした。太平洋戦争も終リ近くになって、戦争の不気味な足音は-どんどんこの沖縄に近づいLZだあ5b当時の島田叡沖縄県上知事は一九四五てさまLた。日本軍がLだいに不利になる中て、年二月一O日に緊急市町村長会議を閉さ、米軍の沖縄本島上陸に備えて中南部市町村の住民の北部への避難を提案し、協力を求めまLた。北谷村民の避難先は北部の羽地村(今の名護市羽地)北谷村役場ては羽地村の民家を借りて北谷ど指定されたので、村役場羽地分所を設け、職員二名を派遣して村民の避難生活に必要な諸準備にあたらリルら〈仁Feヲかいせました。それど同時に、緊急部落常会を聞いて避難をすすめまLたが、村氏はあまリ気がすすみませんでした。それは避難先での不自由な生活、家財道具を残して郷里を去るこどへの心配など様々な理由が挙げられますが、この頃まで住民がまだ陸上戦の恐7hJLさをからなかったこどが、避難を渋った理由の第一だったど考、えられます。かんばヲLAYげう一九四五年三月二三日から始まった米軍の空襲や艦砲射撃で状況は一'変Lしかし、68 うるま島・海辺の砂や小石を「ウル」といい、島のことを「マ」と表現します。「砂と小石からきた島」ということです。「思出草」(一七OO年)という本の中にうるまの島・うるまゆり・うるまの国などと沖縄を表現しています。}一九四五兵庫県一九四五(昭和二O)年一月一二日沖縄県知事(戦前最後の県知事)に任命されて着任、住民の避難と食糧確保に奔走しました。米軍上陸後も沖縄住民のために色々努力しましたが、沖縄戦で亡くなりました。島田叡寸L神戸市出身で、戦前、各地域の部落単位でもたれた住民の集会。この会合では、役場からの伝達事項を伝えたり、部落住民全体に関わる事柄についての話し合いや取り決めなどが行われました。部落常会

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