北谷町の自然・歴史・文化
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O万円)が設立されて、糖業振興のシンボルどして一日四OO卜ノの黒糖を生産する能力を備えた県下最大の嘉手納工場の建設を始めました。同工場にはサトウキビを工場に搬入するための軽便レlル(一二線)、か敷設され、六OO台余りのトロッコなどが操業に向けて用意されました。また、北谷・読谷山・越来・美里の四か村のサトウキビ作農家どの聞に買入の契約を結んでいます。どころで、嘉手納工場の工事着工以来の嘉手納の変貌ぶりを一九一二年五月一日付『琉球新報』は、次のように報じています。「嘉手納通信」r一一、前田各ム一昨年製糖会社工事着工以来諸種の実業屋族集するこど、A7尚ほ引きも切らない。ゆやLたてやそばやA7新参の諸業を種別すれば、旅館、湯屋、理髪屋、和洋洗濯屋、仕立屋、蕎麦屋、料ないらたたみせいさくや理屋、菓子屋、ラム、ネ製造屋、三味線製造及修繕屋、時計修繕屋、内地畳製作屋、肥料販売屋、雑貨商等にて、商家建築中の主人はロ入数多して撰択ど返答どにお困りてあるそうだ。後田各このように、工場の建設・操業にどもなう嘉手納の都市化ど、かつての農村風景が様変わリしたようすを伝えています。その後、銀行・警察署・裁判所・郵便局などが、近代のようす次々ど設置されていきます。つまリ、嘉手納工場建設が契機どなって北谷の産業・経済は著しい展開をみせ、中頭の中心地どなっていくのです。沖縄製糖制嘉手納工場(戦災で壊滅)67

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