北谷町の自然・歴史・文化
89/290

中部の経済の中心地川交通の要所①道路の整備!i ---, ,近宿ト世道十北し一一ノA、-<コl立首里・那覇ど国頭を結ぶ交通の要所のつでした。三ヒ谷当!i B寺田I1の頭i:交方lf通~I~の海1;'中道ト心ど呼ばれる王府の公道A、7 の県ど道中tZ頭工芝方β王旦西itイさ:[宅うたカ〈北谷←読(首里←浦添←北谷←読谷山←恩納←名護)(首里←浦添谷山←越来←美里)の二つの宿道に属していました。国頭方西海道は、のちの国頭街道(大正四年開通。那覇嘉手納←名護←羽地今帰仁)の主な部分を形成し、現在の国道五八号にほぼ対応しています。近代になりますど、急速に交通網の整備が進行します。〈にがみかいピヲ一九二O年に国頭街道は県道どなリ、多くの荷馬車・客馬車・人力車・乗合パスなどが那覇ピ国頭を往来するようになリました。一九一七年に沖縄自動車(株)の乗合自動車が那覇l名護問て運行を開始し、次いて昭和パス、か那覇|読谷山村(今の読谷村)喜名の聞を、、さらに与那原泡瀬問、勝連1屋慶名|金武の問ても運行されるようになリます。このように近代沖縄の交通は、飛躍的に近代化を遂げていきます。近代のようす一九二二年には沖縄県営軽便鉄道嘉手納線が開通Lます。これによって、北谷は中頭地域の人や商品、農産物など物資の集積地・輸送地どしての機能を持つようになリますが、それに先立ち嘉手納製糖工場(一九一二年)が操業を開始しています。一方、一九一二年には県立第二中学校が嘉手納に設立されていました。その後、於茂登村落の全景於茂登村落は石垣市にある開拓村落である。1957年北谷・玉城・与那国から20戸が入植した。65

元のページ  ../index.html#89

このブックを見る