北谷町の自然・歴史・文化
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歴史の移り変わり②戦後の移民・出稼ぎ戦後北谷村の海外移民は、戦前に比べてまったく奮いませんでした。昭和三0年代リゆっ5ゅ7せい」の琉球政府による「ボリビア計画移住」て四六人がボリビアに渡リ、以下にブラジル四一人、アルゼンチン一八人など、戦後の移民は南米が中心でした。しかL、移民先の受入れの不手際や入植地の不備、現地の人々どのトラブルなどから、帰国する者が少なくあリませんてした。べいこ(Lせいけんt戦後の県外出稼ぎは、米国施政権下て本土への渡航手続きの問題や、米軍基地への労働力の吸収などて県内て十分に就業労働力の需要を満たす状況にあったこどなどから、県外への出稼ぎは中学校や高校を卒業した若者の本土への集団就職がわずかにみられる程度でした。戦前には皆無に近かった県内移住は、戦後になるど琉球政府の計画移民どして「八八重山への開拓移住は、「米軍の軍事占領支配ど県外重山移民」が推進されまLた。から約十七万人にも上る引揚者があったため、人口の増加が著しく、食料増産を目指Lた」〔『北谷町史』第六巻三四六頁〕昭和三0年代に入るど北谷村からも「八重山移民」の希望者(家族)が出てきます。北谷村からは①豊はLっかいた〈だんEか之庁いた(どん〈71りかいた〈どんひLηのかいた〈だんZ之さピケいた〈だん原開拓団、②栄開拓団、③久宇良開拓団、④平野開拓国、⑤真栄里開拓国の五開拓団からだどいわれています。に三三家族が移住しています。64 第一回移民を運んだ笠戸丸ハワイでの砂糖キビの刈取り風景(1902年頃)

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