北谷町の自然・歴史・文化
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ければ中毒になったリ、時には死にいたるこどもあリ1Lた。各地て蘇鉄中毒による歴史の移り変わり死者が出たこどから、ところで、「ソテツ地獄」ど呼ぶようになりまLた。さんさよヲ〈みあいニヲせっしらや北谷村ては産業組合や公設質屋などを導入して、農業の保護や困窮者のたいなんせいピうかぶLさがいLゃ(昭和二)年には嘉手納製糖工場(台南製糖株式会社)救済に当たリました。こさ〈にんの小作人が苛酷な小作条件の改善を求めた訴訟一九二七(ムロ南製糖小作争議)や、大地主の小作人らによる過重な小作料の軽減・免除を要求する小作争議が起きています。不況の深刻化にどもなって移民や出稼ぎが次第に増えていきました。この時期、伊礼肇は中央政界て沖縄救済を精力的に訴えています。その成果もあって沖縄県て沖縄振興計画案がまどめられ、県会、町村会など官民あげての促進運動が繰リ広げられます。促進期成会設立や沖縄県振興計画特別調査会設置などの動きを受討さむわけんLんこうねんけいか〈あん一九三三年五月の帝国議会で「沖縄県振興十五カ年計画案」が採択され、同年ZんLゅ7じへんLゃんはいじへんから実施されるこどになりまLた。しかし、満州事変・上海事変が起こリ、一九三七年の日華事変勃発を境に沖縄県も戦時体制下に組み込まれていく中で、沖縄県振興計けて、画も挫折してLまいます。ω移民・出稼ぎと北谷①戦前の移民・出稼ぎ沖縄県の移民はピヲやZ50ヲモう年に当山久三がハワイのサトウキビ耕地に一八九九(明治三ニ)送リ出した契約移民二七人が最初ですが、その中には北谷村出身者は含まれていませんでした。62 産業組合・経済の発展をはかるために同じ職業が協力してつくった組織。公設質屋・戦前の農家では、病人や冠婚葬祭などの時の出費のために、首里や那覇などの質屋から高利なお金を借りていました。そこで北谷村では、一九二三(大正二己年に村営の質屋をつくり低利で貨し出しました。満州事変一一九一二一(昭和六)年九月一八日、日本の関東軍が満州鉄道を爆破したことをきっかけに始まる日本の満州侵略戦争。上海事変・:一九三二年に上海でおこった日中両軍の武力衝突。日華事変目・一九三七年七月七日に北京市南西部で覆閏演習中の日本軍が数発の銃声とともに、中国軍による攻撃だとして始まる日本と中国の全面戦争。当山久三、一金武二代‘J一十J一()町並里に生まれる。沖縄県の移民の父として知られる。教育者・社会啓蒙家でもある。

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