北谷町の自然・歴史・文化
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だいいらじこの-之江い後、六回連続して当選L、政治家どしての地位を不動のものどします。第一次近衛内た{ιさんよかんZんL??かいた(官んよういみん駅(一九三七年)ては拓務参与官に任命され、満州開拓や南洋移民などを強力に推進さピうかかくけいせいせんもんいいんします。さらに、拓務省政府委員や砂糖価格形成専門委員などを歴任しました。H55わ5ゅうさいせい、う勺た問、沖縄県経済が疲弊しているどして沖縄救済を政府に訴えました。その生44に、敗戦後は政界から引退して、沖縄県出身の海外引揚者のために千葉県の御用林を払い下げてもらい、そこに海外から本土に引き揚げた沖縄県人を受け入れるなど積極的に救済活動を展開Lました。「ソテツ地獄」と移民・出稼ぎ川「ソテツ地獄」の発生第一次世界大戦(一九一四;一九一八)の時、好景気にわいていた日本経済は終戦二年目の一九二O(大正九)年には一転して戦後恐慌に見舞われました。沖縄県でもはたH砂糖価格の暴落、が続き、追い打ちをかけるように製帽や機織リの不振、豚コレラが流行するなど、沖縄県の経済は一気に不況どなりまLた。那覇ては仲仕のストライキなど労働争議が起、」リ、一九一二年五月一日には沖縄県て初めてのメーデーも行なわれは、米はおろかサツマイモさえロにするこどができ近代のようす-Lた。この時代の農民(庶民)ずに、「蘇鉄(ソテヅ)」を食べて飢えを凌いだのです。蘇鉄は古くから飢餓時の貴重な食料源どして、特別にソテツ畑を設けて各村毎に植えていました。しかし、蘇鉄には有毒成分(サイカシン)があって、食料どする場合には発酵ど水洗いを十分にしな民政党一一九二七(昭和二)年、伊礼正幸・肇の兄弟を中心に結成されたもので、国会では多数を占める政党でした。拓務省一九二九年に植民地行政と海外の開拓・移民を指導するために設置された行政機関、満州開拓や南洋移民を積極的にすすめました。ソテツ料理61

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