北谷町の自然・歴史・文化
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歴史の移り変わり限られていました。町村会は「間切島会」から「特別町村会」(一九O八年四月一日)いっぱんら43ヲモ'かいへ、その後「一般町村会」(一九二O年四月一日)ど改称されます。選挙権は「特別町村会」ては直接国税二円以上を納める者、「一般町村会」ては直接町村税を納める者てLたが、一九二六年からは普通選挙が実施されました。ω「シル|・クル|」政争と北小〈ロ日本から沖縄にもたらされた政党政治が大正から昭和にかけて、多の政治的な派閥を生み出しました。特に北谷村を中心どした中頭郡は政治的な争いが激Lい地域、て北谷村長を辞めて那覇て弁護士事務所を開業した伊礼肇が衆議院議員選挙(大した。正一三年)(特に北谷村・宜野湾村・西原村)の村長やに立候補する過程て、中頭郡村会議員、教職員などを巻き込み地域を二分するほどの激しい対立抗争が生せいゅうかいけんせい庁い政友会からの再三再四にわたる出馬要請を拒み、憲政会から立資産家、ドL羊41し4に。伊礼肇は、候補しましたが落選しています。この対立抗争を琉球処分(廃藩置県)時の頑固党の「シルl・クルl」ど呼げかようになったど考えられています。いわLピ-さらじこの抗争の裏には当時の岩元樟知事(政友会派)やその指示を受けた警察のあからさ内紛に例えて、一般にまな選挙干渉もあったのです。また、「シルl・クルl」の対立は日常生活にも大ミな影響を与え、家庭や親類、友人間の不和を生んだり、暴力ぎたを起こすなど多くの深刻な問題を残しました。いれいセいこうその後、伊礼肇は兄て県会議員である伊礼正幸の支援を得て、みんせいピう年の衆議院議員選挙には民政党一九二八(昭和三)(立憲民政党)から出馬して初当選を果たします。比よ60 政友会av一九OO(明治一二三)年に伊藤博文が結成した政治団体で、沖縄からは高嶺朝教や岸本賀昌らが参加しました。憲政令政友会に対抗するために一九二O(大正)九年に県出身の国会議員が中心となって結成されましたが、声倒れになってしまいました。岩-Z+喝、し九九州刊'鹿児島県生まれ。第一六代の沖縄県知事。一九一=二大正=己年一O月に沖縄県知事に就任し、財政の引き締めや沖縄県農会の設立などを行いましたが、政友会に属していたため、二四年に第一次加藤高明内閣(護憲三派)が成立すると、休職させられました。三一二(昭和八)年には鹿児島市長に就任しています。P!一】』るFr'el字北谷の伊礼(屋号)で、毘正(父)とムト(母)の長男として生まれます。伊礼は一九二三(大正士己年から三期にわたり村長を、二一年から四期連続して県会議員に当選し、村長と県会議員の重職を兼任しました。一時期、公職を離れていましたが、三九(昭和一四)年から敗戦まで再び県会議員の職にありました。発動機付き製糖工場や精米所、澱粉工場などを建設し、北谷の農業発展に大きく貢献しました。戦後は、三和銀行の頭取として金融界でも活躍しました。伊礼肇は実弟です。

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