北谷町の自然・歴史・文化
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それに比べれば少し楽なように見えますが、実際はそれ以外にもさまざまな税金や、道づくリ、橋づくリなどの労働に使われたので、決して楽ではなかったようてす。②オエカ地は、地頭代や首里大屋子など、間切の上級役人に与えられた役地です。③ノロクモイ地はノロに与えられた役地です。④地頭地は、首里や那覇の上級役人てもある地頭に与えられた役地です。上級役人は王府の役職の他に、間切や村を領地どLて授けられましたが、近世には地元の地方役人に行政をまかせ、領地に住むこどはほとんどあリませんでした。②()④の田畑は、役人たちの役地て、耕すのはたいてい村の百姓たちでした。生産高の三分の一が地頭、三分の一が税金、三分の一が耕した百姓の取リ分どなっていました。⑤の仕明地は開墾した土地のこどです。士族は個人でも開墾ができましたが、百姓は村や仲間て開墾L1Lた。この土地は私有地、て、売買するこどもできまLた。北谷間切の人は、多くが百姓身分の農民てLた。しかし、首里・那覇から移リ住んてきた士族身分の人たちも大勢いました。明治時代の調査(一九O三年)ては、人口の五一一ア判が士族出身て、具志川や美里間切ど並んで、士族の割合がどても高い地域どなっていました。A7のよ勢頭や桑江ヌ前などは、それらの人々が住み着いた村落て屋取どいいます。近世のようす交通l道と橋|Lゆ〈みら交通の中心は、王府の公道の宿道でした。今、ていえば国道や県道てす。首里から久ロ間切番所へは、この宿道てつながっていました。首里や那覇に住んでいた士族が、仕事がなくて生活に因り、地方にやってきて農業などをしながら住むこと。地元の村落からはなれた村はすれや山がちの所に集まって住むことが多く、このような集落は屋取村落と呼ばれています。北谷にも多くあって、本文の他に北谷ヌ前(北前)や玉上下勢頭・謝苅・桃原・石平・桑江前・粟江後などがあります。51

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