北谷町の自然・歴史・文化
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間切や村の役人は、歴史の移り変わり一八九三(明治一二ハ)年には村捉以上のよ級役人が二01三O人、下級役人まで入れるど一八O人くらいでLた。北谷間切の人口が一八八O年には九八OO人余ですから、約五O人に一人の割合てす、地方役人は、ば偉い人ですが、近世は士農工商など身分が定められている時代です。沖縄ては、農一般の人からすれ工商はみな農民HH百姓て、士(族)はもどもど首里・那覇出身の士だけであリ、間切の役人たちは、地頭代なども身分の上てはやはリ百姓でした。土地と田畑近世には土地はすべて国王のものでした。しかし、実際はみな家や屋敷を持っていましたし、お墓も個人のものてした。田畑は、①百姓地、②オエカ地、③ノロクモイL品けら地、④地頭地、⑤仕明地などの区別があリまLた。①百姓地は田畑の大部分を占めてヘ-Jl,います。お授け地ど呼ばれ、固から間切に与えられた形になっていて、百姓はその土地を耕Lて米や麦を作リ、税金どLて納めたのです。もちろん売買はできません。土地は個人ではなく間切に対Lて与えられまLたから、税金は間切単位に課されまLた。じわ7せいピ沖縄では地割制度があって、田畑を村人の数や家の数て割って各自に与え、数年(}数十年たつどまた割当てをやリか、えました。これは、みな平等の条件にするために行われたどいわれています。北谷には、北谷タlブックヮど呼ばれた豊かな(北谷田圃)田んぼがあリました。A7の北前やハンビl一帯です(写真)0田畑の税金は、久米島などの例だピ、生産高のニOf)三OTいくらいとされています。ごヲごλん江戸時代の各藩ては「五公五民」どいわれ、五ouhくらい取られていましたから、50

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